磁石の使い方

私の周りでは60歳代や70歳代の現役社長がバリバリと働かれています。僕が「遅くまでかかって…」あるいは「朝早くから取りかかって…」仕事をしても、それらの方々は、いつも決まって僕より遅くまでやってるし、僕より早くからやっている…そんな気がします。「僕はこんなに頑張っているんだ」と自慢したい時だってありますが(…本当にまれですけど)、それらの方々を見ていると、そんなことを言ったらバチが当たる気がして…困ってしまいます。親しい人に「あなたは『仕事が嫌だ』とか『仕事の愚痴』とかを言わないね」と時々言われます。それは僕がけっして高邁な性格の持ち主であるからではなく、小さいときから周囲にそういう方が多くおられたから、「自分がそれを言ったらおかしいよね」という気持ちが底流にあります。僕の父もその典型的な「頑張る人」です。本当に頭が下がります。もうとっくにビジネス界からは引退しましたが…
 
さて、その頑張る60歳代や70歳代の社長が支えている会社の少なからずが、曲がり角にあることも目の当たりにしています。廃業される加工工場もずいぶんと増えているような気がします。「加工を受けてもらえなくなった」とか「部品の製造元がやめちゃった」という話をよく聞きます。時代の流れ、政策の失敗、海外への流出…いろいろな理由はあって、たしかにそうかもしれません。でも一方で、明かりという産業の担い手は、油屋からろうそく屋になり、ろうそく屋からフィラメント電球のメーカーになり、そしてLEDメーカーになりました。産業分野としては綿々とつながっていますが、プレーヤーは時代とともに変わってきました。それは今も昔も同じです。会社の曲がり角の理由は、もっと内なるものにもあるような気がします。
 
60歳代や70歳代の社長の経歴のお話を聞いていると、それ自体が1つの小説になりそうです。でも頑張りの原動力には2つの大きく違うパターンがあるような気がします。個性豊かなこれらの方々は、みなさん超強力な磁力線のようなものをお持ちです。ただ、磁石にはS極とN極があって、ときにはひきつけますが、ときには反発します。みなさん苦労人でいらっしゃる。不遇の幼少期を過ごした方も少なくない気がします。そのことが、早くから独立心を持ち、社会で存在感を示す気概をはぐくみ、不遇から脱出するという強い決意と信念がその後の頑張りを支える…。人間社会がみずから崖を作り出すことも、その谷の深いこともよく知っておられます。社会は甘くない、理不尽が存在することを骨身に沁みてご存知です。それはもしかしたら恐怖と言えるかもしれないし、憎悪と言えるかもしれません。崖や谷がN極なら、自分の磁石のN極を向けて、反発させながら、そこから少しでも遠いところに自分を持っていくことに、人並みならぬ努力をされて来ました。この反発を原動力とする頑張りはとても強固なものです。なぜなら、崖や谷というN極は自明のものだからです。現に存在する恐ろしいものだからです。いつだって目を見開けば、心を向ければ、崖や谷を圧倒的な存在感をもって心に投影させることができます。
しかし、この頑張りには1つの弱点があるような気がします。向かうべき方向が定まらないことです。遠ざかった距離で成果を量ることはできますが、どっちに向かうかは二の次になります。ここに組織のリーダーとしてのリスクが潜んでいるような気がします。業績が落ちる、競争に負ける、会社の評価が下がる…その怖さを知っていることはリーダーとしてとても重要なことで、そこから遠ざかるための努力は当然に基盤となります。だから、5年で85%、10年で94%の会社がつぶれるという現実の中で、稀有な存在としてつぶれずに今日まで来たのです。それでも曲がり角は来ます。きっと来ます。
 
どこかで磁石の使い方を変えなくてはなりません。前に向かってN極を向ける転換をしなければなりません。では前方のどこにS極を置いたら良いのでしょうか? 反発のためにN極と違って、ひきつけるためのS極は自明のものでないようです。自分で作らなくてはなりません。それが理念とかフィロソフィーと言われるものだと僕は思っています。そして、自分でどっちの方向にその自前のS極を置くかをまず決めなくてはなりません。反発力は遠ざかるほどに弱くなります。ですからどこかでN極を前に差し出さなければならない時が来ます。でも理念やフィロソフィーが、利益や規模と言った経済的な側面が基調にあったとしたら、それはやはり崖や谷を意識したものであって、S極と間違って刻印されたN極でしかなく、やはり反発に働いてしまいます。
 
会社の曲がり角とは、自前のS極ができてない、あるいはそれが形ばかりのもので磁力が弱いために、もはや崖や谷というN極との反発力も及ばない場所まで来て、会社が進行方向が大きく揺れ始めた…その現象を言うのかもしれません。それではどうしたら、5年で15%、10年で6%の希少なグループに入れるためのS極とはどういうものなのでしょうか? 94%の中にはない、それを超えた何かであることは間違いありません。稲盛和夫さんはその答えを、宇宙の気とつながる経営と呼ばれました。それを磁石として会社を引き寄せ続けるしかない…それが卓越した方の結論です。しかし、いきなりそのレベルに自分を持っていくことは難しいです。とうてい僕にはできそうもない…それでは何をきっかにするか? それが今回の僕の告白であり、今回のテーマです。それは、恐怖と憎悪を自分で癒すのです。頑張る社長さんは、ほとんどみなさん、頑張らなければならなかった何かを生い立ちの中でお持ちです。たしかにそれはN極としては優れていましたが、ある距離までくると効力は失われていき、かえってS極の磁力を奪うことになります。心の奥に巧妙に隠したとしても目に見えない磁力は弱くはなりません。癒す…言い換えれば赦すしかないのです。心の敵を作るのをやめる…僕はそこからはじめています。
 

80対20の法則

経済学者であるパレートが発見した法則で、パレートの法則とも80対20の法則とも言われるようです。全体の80%の売り上げは20%の顧客によって生み出されている…とか、全体の80%の富は20%の人によって占められている…とか言われます。したがって、80%の売り上げを生み出している20%の顧客に販売努力を集中させる…とか、全体の80%の売り上げを生み出している20%の商品のマーケティングに集中する…とかいった行動原理が効率性を生むキーであると教えられました。注目すべきは20の方であり、80の方ではないのです。この80対20の法則は仕事ばかりでなく、いろいろな局面に利用できる普遍的な法則であると考える人も少なくないようです。
 
僕もある意味でその一人であるかもしれませんが、視点はまったく違うのかもしれません。どんな事柄の原因も、最大で考えても80対20である…というのが僕の考え方です。遅刻したのは電車が遅れたから…、彼がミスをしたのは彼が勘違いしたから…、納期に遅れたのは彼女がうっかり見落としをしていたから…僕らは主因を考え、それで納得しようとするクセがあります。でも、僕らは納得しようするときに、多くは自分の外側に原因を求めがちです。自分の問題を大きく考えることはとてもストレスが大きく、そして、信頼を失うのではないか…、努力が評価されないのではないか…といった恐怖さえ感じます。森の中でヒョウに襲われ命を失うことがなくなった現代において、経済社会というジャングルの中で、存在価値を失う…そのことに人の脳は「命を失う」に代わる位置づけをしてしまっているように思えます。森の中で生活していたころ、ガサガサっと音がした…ヒョウだ!という脳の警戒信号はおそらく99%は誤報だったことでしょう。そして、現在も「存在価値を失う!」の信号の99%は誤報かもしれません。ヒョウかもしれない…と思って脳が臨戦態勢に入ったとしてもたいした害はないかもしれませんが、「存在価値を失う!」の警戒は、人を頑固にし、怒りっぽくし、心の柔軟性を奪います。そし本来素直でシンプルであるべき人間関係に、『オモテとウラ』や虚栄が持ち込まれます。百害あって一利なしかもしれませんね。「存在価値を失う!」の誤報こそが、存在価値や信頼を失う最大の原因になっているのかもしれません。
 
多くの場合、たとえ100%と思えても、主因はせいぜい80%です。そして、その80%は自分の外にある、自分ではコントロールできない事柄です。そのため、その主因を解消しようと80%の側を責めて、改めさせようとします。そして20の側に属することは、「80が無ければ」となり、「むしろ被害者」との言い訳に終始します。でも集中すべきは20の方かもしれません。それは自分の手中にあります。自分でいかようにも改めることができます。自分の手中にはない80を変えることは容易ではありません。もしかしたら、80の側の性格、価値観、システム…そういったものとドン・キホーテのように戦うことになるのかもしれません。時間も労力もかかるばかりでなく、自分も含めてとても嫌な思いをすることはそれこそ100%保証されています。せいぜい得られるのは、ゆがんだ自尊心と言い訳、それも無理なら悪口を言って自分を慰めることくらいしかできないのではないでしょうか。
それだったら、短時間で確実に実行できる手中にある20に集中してはどうでしょうか? 会社や社会で起こる多くの問題への対処法は、主因を変えようとするのではなくて、自分の手中にある20を変化のトリガーにすることにあるように思えます。
ですから、一生懸命自分の外側にある主因を説明しようとしている人を見ると、「問題は主因が何か?じゃないんだけどなあ…」と思ってしまいます。それより、さっさと手中にある20の中にある原因に集中し、それを分析し、反省し、改めるための対策を打ち出してみてはどうでしょうか? その方がずっと後味がいいし、必要な時間も少ないはずです。20を見事に変えたなら、あとは80対20の法則があります。それにお任せしましょう。
そして、失わなくて済んだ時間と気持ちを携えて、いっしょに飲みに行きませんか? きっと愚痴ではない、もっと貴重な何か…が酒の肴にできるはずです。
 

行きつけのCaféに行ったら、パーティのためのたくさんの花が飾られていました。

行きつけのCaféに行ったら、パーティのためのたくさんの花が飾られていました。

小さな企業のトップの幸せについて

20160830-1組織図というと、トップに社長がいて、その下に経営陣が並び、そして各部署があり…というのがお決まりの形でしょうか? 当社の場合は、下にコックピットと呼ばれる経営陣がいて、それが各部署を支え、そして最終的にはお客様を支える…という逆の形状で、しかもお客様まで入った組織図になっています。そもそも当社はトップに社長が君臨して・・・というような「スーパーな偉い社長はいない」ということもあるわけですが…もちろんサーバントリーダーシップの考えを取り入れた組織図にしています。
 
さて、コックピットは組織の全社員を見渡していなければならないことは当然ですが、当社のような小企業の場合はそれだけではいけないと思っています。コックピットが全社員を支える起点であるのと同じように、社員もまた家庭では、それぞれの家族を支える起点となっています。コックピットはその社員が支えている家族も含めた視野を持ちたいと願っています。
 
ではどのように視野に入れるか? 社員寮があるわけでもないし、軽井沢に立派な福利厚生施設があるわけでもないし・・・、家族に向かって「君たちも含めて会社は支えているんだ」なんて思ったりしたら本末転倒になってしまいますよね。僕はこう考えています・・・「会社は社員の成長にコミットする」
物心の「物」の面だけではなく、「心」の面にも目を向けて、家庭を支えている社員の成長を会社は支援し、その機会を作り続ける・・・そのミッションをこれからも忘れないようにしたいと誓っているところです。
 
先日、社員の家族にも参加してもらい日帰りの研修旅行をしてきました。適切な利益をあげ、社員の家族も参加できるレクリエーションを企画し、そして家族の楽しそうな顔に触れるとき、小さな会社の社長として僕は静かなでも深い幸せを感じます。
家族を支える・・・それはたいへんなことです。子供がいるなら無条件に「その子らの成長にコミットしなければならない」社員たちです。残念ながら良いことと悪いことはあざなえる縄のごとくめぐってきます。もしかしたら、良いことより、そうでないことの方がずっと多いのかもしれません。「それでもがんばれ、がんばれ」と思わずにはいられませんね。
 
 

水槽の中はまるで1つの宇宙のようですね

水槽の中はまるで1つの宇宙のようですね

迷ったときはどちらも採用しない

渋谷の喧噪を少し離れたところにBootlegというこぢんまりとしたバーがあります。目立たないビルの2階にあります。狭い階段を上がって扉を開けると、ほのかな明かりに照らされた、ウォールナットほど暗くない、チークほど明るくはない、磨きこまれたカウンターと、マスターの笑顔が迎えてくれます。大きなウーハーから抑え気味に流れ出す余力のある音は、マスターの醸し出す穏やかな時間と相まって、異空間を作り出しています。具体的な場所を申し上げるのはご容赦ください。何しろ、意図的にホームページは作らない・・・そういう方ですので。
今日のグラスワインをお願いして、それを選ばれた背景をお聞きすると、育てた畑や、ときには栽培者の人となりまで説明してくれます。ワインをいただきながら、その話を聞いていると、まるでイタリアやフランスやカリフォルニア・ナパバレーが目の前に広がってくるような思いがします。悩みを抱えているとき、とてもうれしいとき、そのお店の空気を思い出して行きたくなります。
 
ふらっと寄ると、たまたまお客様は僕一人…ということもあります。そんなときは、お互いに経営者ですので、そんな視点の話になったりします。独立してお店を持つときに、ソムリエとしての知識だけではなく、経営のことも学ばなければいけないと思い、さまざまな勉強をされたそうです。そして、結局たどりついたのが「思考は現実化する」だそうです。今もなお紐解きながら経営者としてのオーナーの骨格になられているそうです。僕も結局は、経営にとって最も重要なことは、その「思考は現実化する」と稲盛和夫著「生き方」の2冊にすべて書かれているのではないか…そう思っています。オーナーもまた、優れた接客もお客様の満足も、そのベースにきちっとしたフィロソフィーと経営があってはじめて存在しうるものだと痛感し、実践しているお一人です。
彼がここのしゃけ弁は本当においしいいです…と教えてくれた三軒茶屋のしゃけ弁は、本当にうまかったなあ(笑)。
 
さて、会社の活動には、AかBかを選ばなくてはならない局面がたくさんあります。二律背反した(トレードオフな)AとBのどちらかを選ぶように迫られることは本当に日常茶飯事です。その連続と言っても過言ではないでしょう。さまざまな角度から検証が行われ、優劣が比較されます。でも最近の僕はこう考えています。どちらか迷ったら、どちらも採用しない…第3の案を考えるべきではないか・・・と。Aの次元もBの次元も超える、言い換えればAかBかの問題そのものを消してしまう、そんな第3の案を考えるべき・・・もしかしたら第3の案が出てくるまで待つべき・・・そう思うようになりました。
 
しかし、そのためには、議論の次元を1つ超える『在り方』が求められます。「この価値で・・・、この視点で新たに考えてみよう…」がないと「会議は踊る」だけでどこにもたどりつけなくなってしまいます。そして、その新しい次元での検討をするときに必要なのが「ミクロの視点」と「マクロの視点」という視点の切り替えを繰り返すクセだと思います。そのため、「私たちのポリシーとミッション」の社員の心得10か条の中で、『⑤ 鳥の目と虫の目を併せ持つ』を掲げています。
 
会社の問題においても、個人の悩みにおいても、本当の解決策はその問題の次元にあるのではなく、その上の視点を持つことによって生まれるのだと思うようになりました。しかし、そのためには、自分の次元を去年より今年、今年より来年と高めていかなくてはなりません。多くの優れた経営者が宗教心を持つのは、その究極の次元を求める渇望が引き寄せるものだと思います。多くの仏教関係の本を読んでみたり、しばしば教会に行って牧師のお話を聞くようになったのも、自分の持つ次元を高くするための視点を求めてのことです。稲盛和夫さんが言われる「本来自然の法則はものごとを進化発展させる方向に進めようとしている」「自分と宇宙との波長を合わせること」の重要さが徐々に理解できるようになってきました。
 
さて、Bootlegのマスターは僕に聞きます。「豊かな陽光をいっぱいに吸い込んだようなピノノワールの赤と潮の香りをいっぱいに吸い込んだようなアイラのシングルモルトとどっちにされますか?」…こればっかりは僕では次元を超えることはできそうもありません。両方?…それじゃ帰れなくなってしまいそうだし・・・
 

20160725-1

楽観的に未来を考え、悲観的に計画をし、楽観的に行動する

森を追われた私たちの遠い祖先はつねに命の危険と隣り合わせだったようです。森の減少とともに地上に降りて二足歩行を覚えていった私たちの祖先は、草むらや頭上の木から飛びかかってくる肉食獣のときに格好の餌食になってしまったようです。多くの頭蓋骨に牙の食い込んだ跡が残っているそうです。草むらでがさっという音がした・・・頭上で小枝が折れるぱきっという音がした・・・悪い予感・・・悪い予感を回避行動に早く結びつけた個体だけが生き残ることができたはずです。そして、悪い体験を強烈に記憶に残すという脳の特質が強化され研ぎ澄まされて私たちの記憶機能の中心で今も働いています。扁桃核はそのときの状況や感情を切り取り、海馬に記憶して残すように指示しているようです。強烈な体験は五感が受け取った臭いや音とともに、海馬に刻まれます。そのため、草むらでがさっという音がしただけで、扁桃核はそれと結びついた過去の悪い記憶をよみがえらせ、体は硬直して戦闘態勢に入ってしまうのです。生き残りにとって、良い体験より悪い体験の記憶の方がはるかに役に立ちます。生き残りには有利に働いたメカニズムですが、肉食獣に襲われることがない現代人も、唐突にしかも見当違いに鳴る時代遅れのアラームに悩まされることになりました。もしかしたら、人は未来の悲観的な材料を集めて説得されることに弱く、それゆえに楽観的な計画にしがみつきやすく、そして計画通りになる自信がないままに・・・あるいはそれを他の責任に委ねたまま悲観的な感情に支配されやすいものなのもかもしれません。しかし、会社の経営にとって重要なことは、その逆を行くのだと思えます。
 
悲観的に未来を考えがちな私たちにとって、悲観的に計画をする…ということがどうしても苦痛になります。何とかなる・・・という漠然とした期待がよりどころになってしまっているため、それを否定されるとまるで自分を否定されたような気持ちになります。会社においては、「何とかなるさ・・・」は何ともならないことを意味していて、私たちの活動に価値があるのは、「自ら現状を打破する」という意思があるからに他ならないことを自覚することは簡単ではありません。扁桃核はすぐに悪いイメージをありありと浮かびあがらせて、私たちを「立ち向かう」ではなく「回避」「先延ばし」へと誘惑します。でも、僕がそれを叱るということは「扁桃核を捨てなさい」というのと同じくらい無理なことを押し付けているのかもしれません。
 
悲観的な計画をきちっと立てられるようになるためには、僕が未来を楽観的に考えているか…そして楽観的に行動できる胆力が持てているかにかかっているような気がします。
世の中には悲観的に未来を考えがちな僕らのクセを利用した商売がたくさんあるように思えます。これを買わないと時代に取り残される・・・これを買わないと流行に遅れる・・・これを今買っておかないと後で値上がりして買えなくなる・・・そしてクレジットでの支払計画には楽観的になってしまう・・・。僕らはそんなクセを利用して騙され続けているのかもしれません。僕らの未来を、僕らの未来に責任を取るはずもないものに任せてしまうのでなく、自分の手の中にしっかりと取り戻したいものです。それには、やはり楽観的に未来を考えることが不可欠になりそうです。そうすることによってはじめて悲観的に計画を立てる力が生れるように思えます。
何十万年、何百万年という時間の経過の中で強化された脳のクセに抗うことは簡単ではないのかもしれませんが、それでも自分の未来を自分の中にしっかり持っておくために、未来を肯定的に考える…そして楽観的に行動できる胆力を培っていきたいと思います。
 

夕日の差して山の端が近くなるころ・・・京都四条河原

夕日の差して山の端が近くなるころ・・・京都四条河原

古来祈りは未来を楽観的に考えるために重要だったのかもしれませんね・・・祇園祭・前祭宵山

古来祈りは未来を楽観的に考えるために重要だったのかも
しれませんね・・・祇園祭・前祭宵山