年初にCOTECメンバーに伝えたいこと「チームという視点」

スエーデンの少女、グレタ・トゥーンベリがきっかけになり、地球規模で若者の考え方が変わってきています。彼女が環境問題の深刻さに気づき、それを背負っていくのは私たち次の世代の人たちなんだと親に憤りを話したら。母親は、「それなら文句を言っているんじゃなくて、自分が正しいと思うことを、自分で行動しなさい。ただし自分の独力でやりなさい」と言われたそうです。
それで、彼女は教科書を持って、自分自身で世界のその場所に行っています。

トランプが「アメリカにはアメリカのやり方がある」と言った際に、彼女は「それは違う」と反論しています。問題が複雑にからみあっている現在のさまざまな問題を前にして、自分には自分の生き方がある」「自分は自分の責任は果たしている」と言うことは正しくないと彼女は言っているのです。
「チーム地球の問題を前にして、責任は大人ひとりひとりが共有している」という視点の違いを彼女は問いかけています。

深刻化する問題を前にして、グッドでもなくベターでもなく、ベストを行動に移そうとしない大人たちに、グレタさんは「無責任だ!」と言っています。彼女は、トランプがあなたの意見を聞こうとすると思うか?と取材を受けた際にこう答えたそうです。「私はそんなに特別じゃない。誰かを説得はできない。私がやりたいこと、最も影響を及ぼせることをやるだけです。」グレタさんは母の教えを守る発言をしています。

グレタさんの視点からみると、僕もあなたもけっして彼女の側にいる人間ではないのです。彼女が「無責任だ!」と言っている相手なのです。僕らは彼女にどう答えられるでしょうか?

彼女がどうして、こんなにも影響を持つのか。すべてにおいて「チームの視点」が不可欠になったからだと僕は思います。さまざまな問題は、業界を超えて影響しあうし、国境を越えて影響しあっています。
グッドでもなく、ベターでもなく、ベストでなければ「それは無責任!」と言われる時代が来たのです。

チームコーテックにおいても、チーム家族においても、チームこの国においても、チーム地球においても…同じことです。ベストを採用するためには、議論が必要です。批判が必要です。ぶつかって磨かれないと、妥協の産物になります。そのためには、言い争える信頼となんでも話せる勇気が必要です。トランプの「自分には自分の生き方がある」「自分は自分の責任は果たしている」の視点を超えなくてはなりません。

このコーテックが属しているチーム日本の塗装業界、チーム世界の塗装業界の課題を考えるとき、僕自身、もっと垣根を超えた視点を持たないと無責任になると思っています。チームによって「最適解」を行動する! それが年頭の決意です。

鉛筆になった夢

20181222-1

不思議な夢をみた。
僕は鉛筆だった。
これから店頭に並ぶ。鉛筆。
きれいな色鉛筆のケースに入れられるところ。
僕は何色なんだろうか?それは自分じゃわからない。
 
鉛筆の神様が僕に話しかけた。
 
鉛筆が生きるための大事なルールをおまえに授けよう。

  • 1つ、生きた印をいたるところで残すことができる。
  • 1つ、ときにその身を削られる季節を迎えることがある。でもそのことでおまえは鋭くなり価値を増す。
  • 1つ、身を削って起こしてしまったミスなら、どんなミスでも消してもらうことができる。
  • 1つ、自然に左右されるものを身にまとっている。その身にまとったもののためにおまえを手に取る人もいる。でも忘れてはいけない。おまえの本当の価値はその真ん中にあることを。
  • 1つ、ときにとても大きな圧迫を受けることがあるだろう。でも決して真ん中にあるものは折られないように気を付けなくてはいけない。
  • 1つ、どんな夢も描くことができる。その可能性は常に無限だ。でもその夢を描くためには、とても大きなものにその身をゆだねる勇気も持たなくてはいけない。

誕生日

20181019-1

お祝いしてもらって、何か言葉を返さないといけないとは思うんだけど、うまく切り出せない。
どの日も等しく大切だから…なかなか特別な日だとは思えない?
それとも、やはり特別な日だから、それにふさわしい言葉が出てこない?

事実はたしかに誕生日もそれ以外の日も等しく365日の中の1日であって、どの日も二度とは帰ってこない愛しい日なんだろうけど…。

誕生日を経るたびに、自分が得たもの、失ったものについて、少し考えることもある。

がんばって、がんばって、でもそれだけではうまくいかないことを悟ったのはいつだっけ?
何とかしてあげたい、でも人が人を救うことって本当に難しくて、きっとそれは不可能なことなのかもしれないって、落ち込んだのはいつだっけ?
知ることが増えるほどに知らないことの方が増えてしまって、どうしたらいいんだろうって思ったのはいつだっけ?…今もそう思ってるけど。
若いころ今の自分の年になるころにはもっと知恵のある人間になっていると思ってて…現実になってみてとても落胆したのはいつだっけ?…きっとずっと続きそうだけど。

本当にたくさんのことを失ってきましたよね。
本当にたくさんのことに傷つきながらここまで来ましたよね。
そして、たくさんの人を知らず知らずに傷つけてきてしまいましたよね。
本当は守りたかったんだけど、守れなかったことがたくさんありましたよね。
伝えたかったけど伝えられずにきたこともたくさんありましたね。
少し勇気が足らなかったことが、こんなにも大きな後悔になるなんて…思ってもいませんでしたよね。
もっと強くありたいって思ってここまで来てしまいましたよね。

どれもこれも、僕のことです。

でも、もしあなたがあなたの誕生日を迎えたなら、その日に伝えたいことがあります。
誕生日はあなたが生まれて「生きる」を始めた奇跡の日です…それが真実です。
そして、できることなら、今日はあなたがあなたを責めないで、自分を抱きしめてください。
そして、来年もそれぞれの誕生日を迎えましょう。

なかなかそんなこと言えないので、文章にしました。
毎日どこかで、Happy Birthday!

春を行く

20180325-1

僕らはなぜ桜をこれほどまでに愛するのだろうか?ほかにも美しい花はたくさんあるのに・・・
里の春、山の春、土手の春、谷あいの春、人里を離れたひっそりした場所の春、都会の雑踏の中にもある春・・・どこにあってもこれほどまでに春の到来を告げるのにふさわしい花はない。桜の花を見るときの喜びは、きっと長く厳しかった冬の記憶があるからこそのものなのかもしれない。
 
先日、行きつけの小さなレストランのカウンターに座って、マスターと雑談をしていたときのことだった。マスターの少年時代はなかなか優秀な野球少年だった。甲子園を夢見たこともあったようだ。しかし、ひざを悪くして、夢は消えた。大人になって、少年野球のコーチをしばらくやっていた。その彼の言である。
「素質のある投手を何人か見てきた。その中で、窮地になったときに、キャッチャーのサインにうなずくだけのやつは結局素質はあっても伸びない。時には首を振る気骨のあるやつの中に大成するピッチャーがいるんだ。」
首を振って投げた球でも、結局は打たれることも多い。でも、もうだれの責任にすることもできない。素質のある少年の中で、大成するためには、その気骨があることが大事な条件であるようだ。そして、その気骨のある少年の中で、大成する次の条件は、「素直であること」・・・だそうだ。
状況に対して、心が逃げていない・・・そして自分からも心が逃げていない・・・このことはどんな世界でも求められることのようだ。結局、この2つがないと、社会人としても信用はされないのだから。
 
さて、それから数日経って、ある介護施設を経営している女性社長とお会いした。女性社長はこんなことを話してくれた。
「ものの本で読んだのですが、心は魂が司るものだそうです。施設にいる方の最期の瞬間に立ち会うことがある。そんなとき、私の心は「私はここにいたくない」と悲鳴をあげます。立ち会うことはつらいです。ここから逃げ出したいのです・・・でも私の魂は私に「ここに留まっていなさい」というの。そして、私は留まることになる。そして最期の瞬間を迎えたとき、私の魂が私を穏やかな心にしてくれるの。」
彼女はそう言いながら、さまざまなことを思い出されたのだろうか、涙を流された。これほど魂と心の関係を見事に表現された話を僕は聞いたことがなかった。思わずこちらも目頭を熱くしてお聞きした。
 
桜は魂に共鳴する花なのかもしれない。それは長くつらい冬を超えてきた心に対して、魂が呼応しているのかもしれない。
僕は会社の集う人の魂のために経営をしたい。いっしょに魂を成長させたい。物欲ばかりの考えとは相いれない会社の魂でありたい。それ以外のことは小さなことだと本当に思う。
 

チャンスはピンチをまとってやってくる

20180119-1

会社はいま大きなチャンスの中にある。しかし、「チャンスはピンチをまとってやってくる」は真理なので、チャンスは必ずピンチを伴っている。心が狭くなるとこのピンチばかりが目に付く。チャンスなのにちっとも晴れ晴れした顔にならない。人には誰でも等しくチャンスは巡ってきているはずなのに、これだと幸運の女神はけっして微笑まない。やはり微笑の絶えない幸運の女神は、同じように微笑みが絶えない人が好きなようである。
 
さて、なぜチャンスはピンチを伴うのだろうか?それも結構深刻なピンチの顔を僕らに見せ、戸惑わせる。なぜならチャンスの芽は、そのまかれた種の土壌が良いことを求める。岩の上や、道端に落ちた種は芽を出さない。一人一人の心の土壌、組織としての土壌が良いことを求める。チャンスは活性化した土壌に芽を出す。かたくなな土壌では芽は出せない。このことをもう少し言い換えてみたい。
 
チャンスが到来すると、ものごとの回転は速くなる。そして、未知の要素も増える。プレッシャーも高まる。誤魔化しが効かなくなる。チャンスというと、お花畑の中にいる自分になれる世界を思い描くかもしれないが、現実はそれと真逆。荒れ野の中で、行くべき世界や方向がはっきり見えたとき、それがチャンスなのであって、自分自身はその場所には決していない。もしかしたら、それは一番自分の喉が渇いているときかもしれないし、足が疲れているときかもしれない。
 
そういうとき、人はどうなるのだろうか?僕は学生時代から登山をしているが、そういうとき僕自身が自分自身の本性を見せつけられることになる。誤魔化しの効かない自分、隠れていた自分をのぞき込むことになる。そして、その本性と言ったらいいのか、自分の中に隠れていた嫌な存在は、自分をいらだたせたり、自分を卑屈にしたりする。なぜなら、本性は隠れたまま増殖を続けたいから。怒ってしまえ、いら立ってしまえ、誤魔化してしまえと自分を誘惑する。もし、その誘惑に負けて、いら立ったら、「結局自分の足で歩かない限り、自分は頂上には立てない」という当たり前のことさえ消えて、本性は今度は自分に言い訳探しの誘惑をしかけてくる。そして、夜明け前が一番暗いという真理を見失う。
 
ピンチは、自分の最も嫌な本性をのぞき込まなければならない局面である。言い換えれば、自分の本性が自分を最も強く誘惑してくるときである。しかし、言うまでもなく、自分の何かを克服する最大のチャンスでもある。謙虚な心にならないと、自分の中にある、鎧を着た嫌な部分を引っ張り出して、天日干しをすることはできない。
 
チャンスは自分や組織にある課題を浮き彫りにするかもしれない。でも個人も組織もそれを結局歓迎するしかない。それと向き合うしかない。そのときピンチに隠れていたチャンスが顔を僕らに見せてくれる。
そして、求めていたお花畑にいる自分は、自分の周りにある世界ではなくて、自分の心の中にある世界であることを気づかせてくれる。
 
「チャンスはピンチをまとってやってくる」…本当に真理だなあと思う。
まずは微笑みから。
 
写真は1月2日のスーパームーン