楽観的に未来を考え、悲観的に計画をし、楽観的に行動する

森を追われた私たちの遠い祖先はつねに命の危険と隣り合わせだったようです。森の減少とともに地上に降りて二足歩行を覚えていった私たちの祖先は、草むらや頭上の木から飛びかかってくる肉食獣のときに格好の餌食になってしまったようです。多くの頭蓋骨に牙の食い込んだ跡が残っているそうです。草むらでがさっという音がした・・・頭上で小枝が折れるぱきっという音がした・・・悪い予感・・・悪い予感を回避行動に早く結びつけた個体だけが生き残ることができたはずです。そして、悪い体験を強烈に記憶に残すという脳の特質が強化され研ぎ澄まされて私たちの記憶機能の中心で今も働いています。扁桃核はそのときの状況や感情を切り取り、海馬に記憶して残すように指示しているようです。強烈な体験は五感が受け取った臭いや音とともに、海馬に刻まれます。そのため、草むらでがさっという音がしただけで、扁桃核はそれと結びついた過去の悪い記憶をよみがえらせ、体は硬直して戦闘態勢に入ってしまうのです。生き残りにとって、良い体験より悪い体験の記憶の方がはるかに役に立ちます。生き残りには有利に働いたメカニズムですが、肉食獣に襲われることがない現代人も、唐突にしかも見当違いに鳴る時代遅れのアラームに悩まされることになりました。もしかしたら、人は未来の悲観的な材料を集めて説得されることに弱く、それゆえに楽観的な計画にしがみつきやすく、そして計画通りになる自信がないままに・・・あるいはそれを他の責任に委ねたまま悲観的な感情に支配されやすいものなのもかもしれません。しかし、会社の経営にとって重要なことは、その逆を行くのだと思えます。
 
悲観的に未来を考えがちな私たちにとって、悲観的に計画をする…ということがどうしても苦痛になります。何とかなる・・・という漠然とした期待がよりどころになってしまっているため、それを否定されるとまるで自分を否定されたような気持ちになります。会社においては、「何とかなるさ・・・」は何ともならないことを意味していて、私たちの活動に価値があるのは、「自ら現状を打破する」という意思があるからに他ならないことを自覚することは簡単ではありません。扁桃核はすぐに悪いイメージをありありと浮かびあがらせて、私たちを「立ち向かう」ではなく「回避」「先延ばし」へと誘惑します。でも、僕がそれを叱るということは「扁桃核を捨てなさい」というのと同じくらい無理なことを押し付けているのかもしれません。
 
悲観的な計画をきちっと立てられるようになるためには、僕が未来を楽観的に考えているか…そして楽観的に行動できる胆力が持てているかにかかっているような気がします。
世の中には悲観的に未来を考えがちな僕らのクセを利用した商売がたくさんあるように思えます。これを買わないと時代に取り残される・・・これを買わないと流行に遅れる・・・これを今買っておかないと後で値上がりして買えなくなる・・・そしてクレジットでの支払計画には楽観的になってしまう・・・。僕らはそんなクセを利用して騙され続けているのかもしれません。僕らの未来を、僕らの未来に責任を取るはずもないものに任せてしまうのでなく、自分の手の中にしっかりと取り戻したいものです。それには、やはり楽観的に未来を考えることが不可欠になりそうです。そうすることによってはじめて悲観的に計画を立てる力が生れるように思えます。
何十万年、何百万年という時間の経過の中で強化された脳のクセに抗うことは簡単ではないのかもしれませんが、それでも自分の未来を自分の中にしっかり持っておくために、未来を肯定的に考える…そして楽観的に行動できる胆力を培っていきたいと思います。
 

夕日の差して山の端が近くなるころ・・・京都四条河原

夕日の差して山の端が近くなるころ・・・京都四条河原

古来祈りは未来を楽観的に考えるために重要だったのかもしれませんね・・・祇園祭・前祭宵山

古来祈りは未来を楽観的に考えるために重要だったのかも
しれませんね・・・祇園祭・前祭宵山