80対20の法則

経済学者であるパレートが発見した法則で、パレートの法則とも80対20の法則とも言われるようです。全体の80%の売り上げは20%の顧客によって生み出されている…とか、全体の80%の富は20%の人によって占められている…とか言われます。したがって、80%の売り上げを生み出している20%の顧客に販売努力を集中させる…とか、全体の80%の売り上げを生み出している20%の商品のマーケティングに集中する…とかいった行動原理が効率性を生むキーであると教えられました。注目すべきは20の方であり、80の方ではないのです。この80対20の法則は仕事ばかりでなく、いろいろな局面に利用できる普遍的な法則であると考える人も少なくないようです。
 
僕もある意味でその一人であるかもしれませんが、視点はまったく違うのかもしれません。どんな事柄の原因も、最大で考えても80対20である…というのが僕の考え方です。遅刻したのは電車が遅れたから…、彼がミスをしたのは彼が勘違いしたから…、納期に遅れたのは彼女がうっかり見落としをしていたから…僕らは主因を考え、それで納得しようとするクセがあります。でも、僕らは納得しようするときに、多くは自分の外側に原因を求めがちです。自分の問題を大きく考えることはとてもストレスが大きく、そして、信頼を失うのではないか…、努力が評価されないのではないか…といった恐怖さえ感じます。森の中でヒョウに襲われ命を失うことがなくなった現代において、経済社会というジャングルの中で、存在価値を失う…そのことに人の脳は「命を失う」に代わる位置づけをしてしまっているように思えます。森の中で生活していたころ、ガサガサっと音がした…ヒョウだ!という脳の警戒信号はおそらく99%は誤報だったことでしょう。そして、現在も「存在価値を失う!」の信号の99%は誤報かもしれません。ヒョウかもしれない…と思って脳が臨戦態勢に入ったとしてもたいした害はないかもしれませんが、「存在価値を失う!」の警戒は、人を頑固にし、怒りっぽくし、心の柔軟性を奪います。そし本来素直でシンプルであるべき人間関係に、『オモテとウラ』や虚栄が持ち込まれます。百害あって一利なしかもしれませんね。「存在価値を失う!」の誤報こそが、存在価値や信頼を失う最大の原因になっているのかもしれません。
 
多くの場合、たとえ100%と思えても、主因はせいぜい80%です。そして、その80%は自分の外にある、自分ではコントロールできない事柄です。そのため、その主因を解消しようと80%の側を責めて、改めさせようとします。そして20の側に属することは、「80が無ければ」となり、「むしろ被害者」との言い訳に終始します。でも集中すべきは20の方かもしれません。それは自分の手中にあります。自分でいかようにも改めることができます。自分の手中にはない80を変えることは容易ではありません。もしかしたら、80の側の性格、価値観、システム…そういったものとドン・キホーテのように戦うことになるのかもしれません。時間も労力もかかるばかりでなく、自分も含めてとても嫌な思いをすることはそれこそ100%保証されています。せいぜい得られるのは、ゆがんだ自尊心と言い訳、それも無理なら悪口を言って自分を慰めることくらいしかできないのではないでしょうか。
それだったら、短時間で確実に実行できる手中にある20に集中してはどうでしょうか? 会社や社会で起こる多くの問題への対処法は、主因を変えようとするのではなくて、自分の手中にある20を変化のトリガーにすることにあるように思えます。
ですから、一生懸命自分の外側にある主因を説明しようとしている人を見ると、「問題は主因が何か?じゃないんだけどなあ…」と思ってしまいます。それより、さっさと手中にある20の中にある原因に集中し、それを分析し、反省し、改めるための対策を打ち出してみてはどうでしょうか? その方がずっと後味がいいし、必要な時間も少ないはずです。20を見事に変えたなら、あとは80対20の法則があります。それにお任せしましょう。
そして、失わなくて済んだ時間と気持ちを携えて、いっしょに飲みに行きませんか? きっと愚痴ではない、もっと貴重な何か…が酒の肴にできるはずです。
 

行きつけのCaféに行ったら、パーティのためのたくさんの花が飾られていました。

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