20才のままの君へ

その知らせを聞いたのは白馬のスキー場だった。夕食後に宿の方と話に盛り上がっていたときにその電話が鳴った。君のお母さんが、クラブの名簿から僕の家の電話番号を探し出し、そして母を通じて宿の電話を聞き、僕に電話をくれたんだ。君の日記には、僕に相談をしていた日のことが書かれていたんだってね。だからお電話をくださったんだ。お母さんはとても冷静に何が起きたのかを説明してくださった。深い悲しみを必死に心の底に押しとどめようとするその声は今でも僕の耳に残っている。
あのとても寒い日に、君はビルの屋上から何を見ていたの。
 
大学の登山クラブ、総勢7名の僕らのパーティーは、北アルプスの針ノ木から鹿島槍、白馬を経て、日本海に下るという11泊の長丁場の合宿を行った。途中で八峰キレットと不帰の剣という難所を通るコースは新人の君にはかなりハードだったと思う。僕はサブリーダーで先頭を歩き、君は新人でずっと僕の後ろを歩いていた。君はおもしろいことを言ってパーティー全体を何度か笑わせていたね。一度も弱音らしい弱音をはかなかった。それが君の物事への取り組み方だったのかもしれない。谷から吹き上がる涼しい風をいとおしそうにほほに受けていた横顔を今でも覚えている。
 
僕は君に謝りたい。その謝る相手を失ったまま時だけが流れているんだ。君のいない冬をあれから何度も重ねてきた。僕は君の悩みを理解できていなかった。僕は結論を急ぎすぎたのだろう。僕はもっと君の話をじっと、ただじっと聞いていればよかった。何かが僕に足らなかった。その足らなかったものを聞く相手も失ったままなんだ。正直に言えば、それは悲しさだったのか、寂しさだったのか、絶望感だったのか、それとも漠然とした不安だったのか…僕にはそれさえ分かってはいなかったと思う。冬はクラブの活動が一部の部員を例外にして、小休止になる。その間に何があったのか、つらい日々が続いていたことを僕は知らなかった。それが僕をとても後悔させた。
 
誰かを失った家族の悲しみを知った。大学生の僕にはとても抱えきれない大きなものだった。でも、きっと君にもそれは想像もできなかった大きさだったんだよね。クラブに残された君が書いたメモ、山行の感想、誰に向けたものかさえわからない文章…そんなものをすべて集めて、君のお母さんにお渡しした。それは追悼集となって僕にも届けられた。その本が読めるようになるまで、僕にも時間が必要だった。君は僕を最後の相談相手にしたままなんだよ。
 
あのあと関西に向かう友達について、僕は一人で京都に行ったんだ。お寺をめぐりながら、僕は君に誓ったね。いつかあの世で再開する日が来たら、僕は必ず「生きるって、けっこういいもんだったよ」と言えるようになっているって。僕は今日も生きている。きっと空の上から見ていると、僕は馬鹿なことや、情けないことや、叱りたいことをたくさんやってきたと思う。悲しいこともたくさんあった。きっとこれからもそうだと思う。それでも、僕は必ず「生きるって、けっこういいもんだったよ」と言えるようになりたいと本当に願ってるんだ。もう本当にダメだと思ったその明日に希望の光が見えることは本当に多いんだ。振り返ってみると、暗さが増したことで出口の光が見えたのかもしれないな…闇が深まることで灯台の明かりが見えたのかもしれないな…と思えることは多いんだよ。
七転八倒の僕の生きざまが、空の上にいる君に、いつか夏の白馬岳で受けた谷から吹き上がってくる風のように届くことを願っている。
僕は君に伝えるべき言葉を携えて生きている。「どんな冬にも必ず春は来る。君が求めていた生きることの目的はいまの僕にも見つからないままなんだ。生きることに目的があるかどうかさえ僕には確かなことは言えないかもしれない。でも季節が巡りながら、心を整えておくことさえできれば、僕らは少しずつ知恵を得ていく。自分の愚かさを思い知りながら、それでも少しずつ人生に色が加わっていく。そのささやかなつながりこそが、生きる意味なのかもしれない。冬が来たら心を整えて雪解けを待ちたいね」
 
追記
なぜ美しい心を持ち、人の心を和ませる力を持った人が、この社会で生きることが難しいのか…それほどまでにこの社会は冷たく壊れてしまっているのか…そう社会に失望した時期もありました。あの寒い日にビルの屋上に一人ぼっちで立った時に、なぜ思い出してはくれなかったのか…彼女の行動を責めた時期もありました。何度となく彼女への手紙を書いては途中でやめました。彼女への手紙をこうして最後まで書けるようになるまでに、僕にはとても長い時間が必要だったようです。最後の相談者であった僕自身への後悔、彼女の心がなかなか理解できないという混乱、そして何よりも語りかける言葉が僕にはなかったのです。
正直に言うと、恨みにも似た気持ちを持った時もありました。でも彼女を通じて僕は生きることの大切さ、そしてその尊さを学んだ気がします。人生を大切にする経営をしたい…その原点には彼女の生があります。やはり僕にとって感謝すべき存在です。しかし、できることなら、僕が彼女をこうして認めているように、自分自身のことを認めてほしかった。いつの日か本当に自分のことを理解してくれる人に出会えることを忘れないで欲しかった…そう心から思います。彼女に出会うべき人がきっとこの地球のどこかにいたはずです。もし、絶望の淵にいる方がいらっしゃるなら、どうぞそのことを考えてみてください。彼女がそうであったように、人を責めるより自分を責めてしまう人、自分の弱さを知る人…でもそのような人こそ生きることの尊さをやがて知る人であり、社会にやさしさをもたらす存在なのですから。
短かったけど彼女が生きた当時の社会…それは社会の正義を求める勉強をしていた彼女にどう映っていたのか…わかりません。そのときより、今の社会がよりよくなっているのか…僕には彼女に「良くなっているよ」と答えられる確信がありません。ますますお金を追い求め、物質的な成功ばかりが尺度になり、人々の心の中にはイライラが増え、そして責めることができるターゲットを探している…知識を人を論破するために使う…そんな側面を感じるようになったことも事実です。彼女に求められたことは、もしかしたら僕らみんなに求められていることなのかもしれません。「自分自身の存在を認める」そして「まず自分の平安をとりもどす」…そのことから「お互いに認め合う」という輪が広がることを願わずにはいられません…彼女に心から良い報告をするために。
 

いまを生きる

タイムマシンを発明しました。僕は自転車の荷台に巨大な風車が乗っていて、それがぐるぐる回る…そんなインチキくさいマシンに乗って過去に行きます。ピンボケだった世界が突然焦点が合ったかと思うと、次の瞬間、僕は轟音とがれきの山に包まれていました。土煙がタイムマシンを覆います。頭上で不気味な音がしています。見上げるといくつもの焼夷弾がこちらに向かって落ちてきます。僕が乗ったタイムマシンを呆然と見ているひとりの女性がいることに気づきました。一人の男性が手を伸ばし彼女に駆け寄ろうとしています。しかし、数えきれないほどの焼夷弾は今にも僕らを飲み込もうとしています。僕は反射的にその女性を抱きかかえ、タイムマシンに載せてその時間から逃げ出しました…。後でわかったことですが、その女性こそが僕の祖母でした。そして、今は亡き祖母から聞いた、「戦火で命を救ってくれたのがおじいちゃんだったのよ」という話を思い出しました。僕は祖父と祖母の運命的な出会を邪魔してしまったのです。そうなると、僕は生まれないことになります。僕の足はだんだん薄くなっていきます。まるで バック・トゥ・ザ・フューチャー みたいだ…しだいに気が遠くなる中、かすかな意識の中で僕はそう思いました。でも、ふと気づいたのです。待てよ…僕が存在しなくなるということは、タイムマシンを発明した僕もいなくなって、そうすると祖父と祖母はやっぱり出会って、そして僕が生まれて…そうなると僕はタイムマシンを発明して…祖父と祖母の出会いを邪魔して、そうなると僕は生まれないので、やっぱり祖父と祖母は…この話は永遠にどこにもたどり着けない話になってしまいます。
 
しかも困ったことに、祖父と祖母が出会い、その結果母が生まれ、やがて父と出会い、僕が生まれた…という歴史はすでに存在してしまっているのです。この事実は消すことはできません。僕がタイムマシンを発明したことによって、僕が生まれていた世界に生まれなかった世界が上書きされるのではなく、生まれた世界と生まれなかった世界がどちらも存在することになります。
この話を矛盾なく説明しようとすると、あらゆる可能性のある世界が同時に進行している…祖父と祖母が出会った世界も、祖父と祖母が出会わなかった世界も、さらには、僕が生まれた世界も、生まれなかった世界も存在している…というパラレルワールドの考えに行きつくことになりそうです。
 
この世界観をもって僕らを見るとき、運命が僕らを縛っているではなく、僕らは無数に可能性のある同時進行の世界の中から、1つを選択している…それを何回も何回も繰り返している…という姿が見えてきます。まるで、無数に広がる線路の中から、1つの線路を選んで走っている電車のようです。しかも、走っているその先にも次から次へとポイントが現れます。
過去は未来を縛り付けてはいません。そして、今のその決断により未来が固定されるわけでもありません。ポイントも線路も無数と言えるほどに眼前に広がっています。過去のポイントでの誤りを悔やんでやり直しをしたところで、結局は今の自分から仮想の自分を遠いところの追いやるだけにしかなりません。過去の失敗を今の電車に乗る自分に活かし、迫ってきている次のポイントでの決断に反映させる以外に自分を改善させる術はないのかもしれません。いくつものポイントといくつもの線路の向こうにあるずっと遠い過去のポイントでの選択の誤りを悔いたところで、それが今の線路にどれほどの影響を持っているのか…それはきっと僕らが考えるよりずっと小さいのではないでしょうか?未来を杞憂したところで、それは無数にある未来の姿のほんの1つを仮定したにすぎません。おそらく当たる可能性は限りなくゼロに近いでしょう。むしろ杞憂は僕らをそちらの方向へそちらの方向へと選ばせてしまう「悪魔の誘惑」にしかならないのかもしれません。
 
僕らにできる唯一のことは、過去の縛りも未来の杞憂からも解放されて、今のポイントの選択に最善を尽くすことなのかもしれません。過去を悔いているとき、僕らは、いまのこのときのポイントを通過しようとしている電車からいなくなることを意味しているかもしれません。未来のことを杞憂しているとき僕らは、やはりいまのこのときのポイントを通過しようとしている電車からいなくなることを意味しているかもしれません。人を憎んでいるときあるいは人に依存しているとき、僕らはいまのこのときのポイントを通過しようとしている電車からいなくなり、他人の電車で自分のものではない線路を走っていることになるのかもしれません。こわいのは、今のポイントをどちらに進むべきかを選択すべき肝心な主役のいないまま空っぽの電車が走ってしまっていることです。もしパラレルワールドに僕らがいるなら、今という持ち場を離れたらたいへんなことになりそうですね。
 

中国は今と昔が同時に存在するパラレルワールドなのかもしれませんね。(江蘇省の常熟市にて)

中国は今と昔が同時に存在するパラレルワールドなのかもしれませんね。(江蘇省の常熟市にて)

宝物に触れること

障がい児の自立のための活動を本当にささやかながら支援をさせていただいています。そのアート展が代官山で催され、そのオープニングパーティの挨拶を「すべての人の心の中にあるそれぞれの宝物のために」というタイトルで紹介しました。今回はそのパーティでのひとこまをご紹介したいと思います。
 
アート展は知之君の絵を中心に障がい児たちの「自分を生きる」を掲げその自立を支援している一般社団法人「からふる」http://color-fuls.com/ の「アトリエからふる」のみなさんのアートをご紹介しました。
その知之君の友情出演として、同じダウン症を抱える麻由さんのピアノのミニ演奏会がありました。彼女は「音とリボン」というグループに所属していろいろな演奏に参加しています。音のリボンが作成された彼女のプロフィールの一部をご紹介しましょう。「…ピアノは5歳から始め、国立音楽院ピアノ科を卒業。
NY国連とカーネギーホールの演奏会に参加…」
 
最初に演奏してくれたのが、「Over the Rainbow」、それから「Rhapsody in Blue」などのアメリカで愛されている名曲をメドレー形式にアレンジしたものを披露されました。思わずスイングしてしまう曲ばかりでした。そして最後の締めくくりの曲で僕は完全にノックダウンされました。彼女が最後に選んだ曲…それは、Amazing Grace でした。
 
Amazing Graceは讃美歌 (ゴスペル) の名曲ですが、偶然にもちょうどその1週間前に、Amazing Graceが生まれた背景と歌詞の正しい意味を聞かされました。残念ながら日本語訳のアメージンググレースは元の英語の歌詞を忠実に表したものではなかったようです。
 
Amazing Graceは、驚くべき恵みという意味です。船乗りを父に持つイギリス人が数奇な運命をたどりこの詩を生みました。父から航海を学び奴隷船の仕事で若くして富を築いたそうです。しかし、彼が20歳をすぎイギリスに向かったある航海の時にひどい嵐に会い、彼は遭難しかかります。船倉には穴があき今にも転覆しそうになります。彼は敬虔なクリスチャンである母を10歳にもならないときに亡くしました。幼いころ読み聞かされた聖書を思い出し、生まれて初めて必死に祈ったそうです。その甲斐があってか、投げ出された荷物が船倉にあいた穴をふさいで浸水が弱まり奇跡的に難を免れました。後に彼は牧師となり、奴隷貿易に携わったことを悔い、そして奇跡的に助かったことに感謝して、このAmazing grace! How sweet the sound…で始まる美しい詩を作ったそうです(曲は民謡が起源ではないかとも言われているようですが不詳です)。
 
驚くべき恵み…なんと甘美な響きだろうか。私のような哀れな人でさえ救ってくれた。私はかつて失われたが、今では見つけられた。かつては盲目であったが、今は見ることができる。その恵みは私の心に恐れを教え、そして恵みが恐れを和らげた。なんと高貴な恵みが現れたことか。私が最初に信じたその時に…という意味で始まるこの曲も、その背景を知ると心に迫るものがずっと深くなりますね。
 
私たちはともすれば、人生と言う航海の中で遭難しそうになります。そして、不運を嘆きます。僕もそうでした。そしてこれからもついつい責任を不運に求めてしまうでしょう。でもそのほとんどは、恐れを失った結果でした。そして、その恐れを知らない心の底には欲があります。僕もそのことで多くの間違いをしてきました。不運の原因さえも自分の問題であることを、ようやく…やっと、認識できるようになってきました。
 
麻由さんのピアノを聴いているうちに、しだいに嵐が遠く去った後の静かな海のような気持ちになりました。彼女の選曲は、希望、楽しむこと、恐れを知ること…の大切さをそのまま僕らに教えているようでもありました。彼女のピアノは、まさしくAmazing graceそのものでした。感謝をこめて。
 

20160620-1

すべての人の心の中にあるそれぞれの宝物のために

ささやかではありますが、障がい児の自立のための活動の支援をさせていただいています。その子供たちのアート展が代官山で催されました。そのオープニングパーティの挨拶をさせていただきました。今回はそのあいさつ文をご紹介したいと思います。

20160529-1

昨日は半日、オランダから来られたゲストといっしょにすごしました。
彼が最初に日本に来たのは今から6年前です。浜離宮を案内しました。茶室があって、抹茶をたててくださるので、静かな瞑想にも似た時間を過ごすことができました。
あれから6年、今回で3回目の来日ですが、その間に結婚され、新居も構えました。20平米くらいの庭もあって、庭造りは自分で全部やったそうです。写真を見てびっくりしました。まるで浜離宮の超ミニチュア版みたいな感じだったからです。
夜はしゃぶしゃぶを食べました。こんなおいしいビーフははじめて食べたと感動されていました。彼の家の近くには「しゃぶしゃぶ」という名の日本食のレストランがあって、中国人が経営していて、すしとしゃぶしゃぶを食べさせるそうです。ところがそのしゃぶしゃぶはこれとはまったく違う…と言います。どこがどんな風に違うのか、彼の説明を聞いてもどうにも絵が浮かんできません。どんな摩訶不思議なしゃぶしゃぶなのか…ちょっと怖いもの見たさ…に似た誘惑を感じています。
今朝になって、オランダ、絵というキーワードのせいでしょうか、一人の画家のことを思い出しました。ビンセントバンゴッホです。1986年、ニューヨークのマンハッタン島のダウンタウンにはまだワールドトレードセンターが2つ並んで建っていたころの話です。僕はメトロポリタン美術館で、1枚の絵の前で釘付けになっていました。それまでの僕はモネやセザンヌといった印象派の絵が好きでした。しかし、僕が釘付けになったのは、意外にもゴッホの自画像だったんです。
20160529-2私たちは、みな心の中に何事にも代えがたい宝物をもって生まれてきています。でもその宝物の箱はなかなか開けられない。そして、自分が宝物を持っていることにさえ疑問を持ったりします。でもそんなことは決してありません。ここにいるすべての人は、必ず心の中にその人だけの、唯一無二の宝物を持っています。
生きるということは、その宝物をさがす冒険のようなものです。そして、その宝物が見つかったときに、人はどれほど輝くものを生み出すのかをゴッホは教えてくれました。
しかし、一方で生きるためにはもう1つ必要なものがあることを、ゴッホは僕に教えてくれました。
彼は南フランスのアルルという地で、ゴーギャンとの友情を求め、そして挫折していきます。
 
自分の中にある宝物のありかをみつけることは本当に幸いなことです。でもその宝物が宝物として輝くためには、人とのつながりが不可欠です。宝物は2つのものを栄養して輝くようです。それは、愛と感謝です。ゴッホは感謝の心を表すことについては絵ほどには才能を持たなかったのかもしれません。
 
20160529-3今回の展示会にあたって、そのシンボルとして2つの絵が候補になりました。黄色い太陽が輝く絵です。ゴッホが使う黄色のようです。まさしく自分の宝物を知る人の絵です。
でも、坂上さんも僕も、こちらの絵を選びました。20160529-4
2回目のアート展に当たって、ほとばしる才能ではなく、包み込むような愛を選びました。

 
 
この展示会は、決して僕の力で開催されたものではありません。
僕がよく行く三軒茶屋のレストラン、BUENOのオーナーである山口さんに、勝俣さんを紹介され、そしてこのカフェを知りました。
会社のいろいろな販促資料のデザインをお願いしている坂上さんを通じて、からふるの活動を知り、みなさんと出会い、そして知之君をはじめ子供たちのすばらしい絵に接することができました。
僕の右手につながっている人のつながりと、僕の左手につながっている人のつながりが、たまたま僕を介してつながりました。アート展の開催に貢献したものをあげなさいと言われたら、それはみなさんの中にある、世界にひとつの宝物の力です。
 
宝物と愛が触れたとき、宝物と宝物が感謝で結ばれたとき、ぼくらはどんなにすてきな気持ちになれるのか? そしてその輪をもっともっと広げていくことができれば、その願いが…坂上さんと僕が、この絵を選んだ理由です。
きっとゴッホもこの絵を気に入ってくれるはずです。
 
みなさんの中の世界にひとつの宝物に感謝します。
お越しいただきありがとうございます。

20160529-5

僕に足らないものを形にする

2015年度の経営を振り返ってみると、僕はいくつかの判断ミスをしました。その中の1つは数字上の影響とは別の次元で「してはならないミス」としてずっと心に刻まなくてはならないことでした。数字としては残らないものであったとしても、僕の経営者としての歩みの中で、1つの転機を示唆するものでした。僕に「根本的な勘違いがある」という証拠をつきつけた…そう思えるからです。
 
かつての僕は、心の根底で「頑張っていれば光明は見出せる」…もっと言えば、「努力を重ねていれば正しい判断はできる」と思っていました。僕より頑張っている経営者はきっと何十万人といらっしゃる…それでもうまく行かない会社もたくさんある…という事実から目をそらしていた…そういう時期がありました。「頑張る」は扉を開けるカギでは決してない…努力は扉の前まで僕らを連れていくけど、開けるカギではない…それが僕の学んだことでした。
 
カギは知恵だと思いました。知識では経営はできない。いくら優れた経営の本を読み重ねたとしても、常に動き、常に不確かさの中にある経営の実際において、それを生かし、生かし続けるためには「知恵」が必要です。そして、知恵を積むことで、「僕は正しい判断ができる」と今度は考えていた。そして、カギを得たと思った僕は扉を開けたのです。しかし、しばらくして僕は間違った扉を開けたことに気づかされることになりました。この数年、僕は知恵に頼ってきた気がします。しかし、それでも根本的に足らないものがあったのです。それを持たない限り、リーダーとして会社を導いていくことはできない…不可欠な何か…です。
 
この世は不条理なのかもしれません。運が左右する社会なのかもしれません。成功と失敗を分ける天秤は人の側にある…努力という分銅…知恵という分銅を載せ続けていれば、いつかは天秤はこちら側に振れる…そう確信していました。天秤は必ず重い側に振れる…そう信じていたのです。しかし、それとは別の思いや意志の方がはるかに重い…言い換えれば天秤は人の側にはない…という諦めが僕にはなかったのです。
きっとそれを諦めてしまうと、自分の心が折れるのではないか…そういうこわさを抱えていたのだと思います。その不条理に耐えられず、天秤は自分の側に持ってこられる…そういうおごりを持ったのです。
 
ところが、天秤は人の側にはないと考えるようになったときから、僕は逆にその恐怖をあまり感じなくても済むようになりました。これは自分ではまったく予想していなかったことです。扉の前まで自分を連れていくのは努力、扉を開けるカギは知恵、しかし、どの扉を開けるのが正解なのかは人知の及ぶところではない…それはもどかしい現実というより、不条理な無力感というより、一種の解放であるように思えます。それを何と呼ぶべきものなのか僕にはまだわかっていません。しかし、稲盛和夫さんが「宇宙の気」と呼ばれたものに限りなく近い…あるいはその入口であるように思えます。
 
会社は第49期を迎えました。50期を前にして、会社の期間限定のロゴマークを作りました。会社は「人」によってできていることを表し、その心(理念)が会社をつき動かしていることをハートマークに象徴させました。そして、人の上に輝くものが「宇宙の気」です。それが社員一人一人の輝きと愛に通じるものであることを願い49期目を迎えました。
 

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