月との約束

ずっとずっとむかし、ぼくがまだ吠え方がうまくなかったころ
月はいつか、僕の胸元に落ちてきて
僕の宝物のように輝き続けるんだと思っていた
でも、いつまでたっても月は落ちてはこなかった
 
僕にはわからなかった
恐ろしい雨雲がその姿を覆い隠してしまっても、どうして
月はまたその姿を夜空に映すことができるのかを
 
僕にはわからなかった
どんなに強い風が吹こうとも、どうして
月はじっとそこにいることができるのかを
 
僕にはわからなかった
月はどんなにに小さくなっても、どうして
失ったものたちを集めてまた元の姿になれるのかを
 
どんな深い夜が訪れても
どんなに遠く道を失ったとしても
月は僕の姿を大地に淡い影にしてみせた
 
やさしく僕の話をずっと聞いてくれた夜もあったし
僕を寂しさの中に置き去りにしたまま、ただ遠くで見ていた夜もあった
今でも僕にはわからないんだ
どうして今もきれいな夜空になると
決まって僕が見上げるのをただただ黙って待っててくれるのかを
 
僕は月とどんな約束をしたんだろうか

forTop

旅のはじめ方、はじまり方

よく行く公園のベンチから見える赤い扉
ずっと僕はその不思議な赤い扉に心がひかれていた
9月だというのに夏の日差しがじりじりとアスファルトを溶かすような昼下がり
僕はその閉ざされているはずの扉が、ほんの少しだけ開いているのに気づいた
ご主人はベンチにすわり、右手に文庫本を持ったままうとうととしていた

僕はそっとベンチの下を抜け出して、その扉に向かった
扉の隙間からするりと中に入ると、そこは真っ暗だった
まるで、上から深い穴を覗き込んでいるような錯覚に陥った
奥の方から、ひんやりとした風が吹いてくる
その気持ちよさに誘われて、僕はさらに中に進んでいった
背後にあったはずの光がすっと消えて
僕は自分の前足さえも見えなくなった

冷たい気持ちの良い風は、さらにもっと奥の方から吹いてくる
風が吹く方に進むと僕は不意にとても濃密な空気に包まれた
ほんの少しだけ明るさがもどったみたいに感じたけど
目の焦点はどこに合わせることもできず、僕は前足を見失ったままだった
やがて、前足と後ろ足が、何十メートルも伸びてしまったような
上も下も、右も左もわからない
不思議な感覚に襲われた

そして、僕は突然に、とても唐突にどこかにむにゅっと出た。
それは、本当に「むにゅっ」という感じだった。
そこは、見たこともない大きな公園だった
そして、それは公園などではなく、深い森の中だということを僕は後で知る
鉛色の空からは、ちらちらと雪が舞っていた
僕は、深い落ち葉の吹き溜まりの上に立っていた
振り返ってみたけれど、そこにもずっとどこまでも木々が続いているだけだった

ここは、地の果てなのか、それとも地の真ん中なのか
いまは、時代が始まったころなのか、それとも時代が終わろうとしているころなのか
僕の頭が僕にもたらす唯一のことは、「とにかく歩き続けろ」という
漠然とした、でも他に選択の余地がなさそうな警告だった

こうして僕の旅は、突然に、そして理不尽に始まった

forTop

夕陽と水切り

僕はとある島にたどりついた
どのようにしてたどり着いたかは覚えていない
たぶん、間違ってフェリーだか連絡船だかに乗ったのだろう
なぜなら、僕の鼻にはしばらく重油のにおいが残っていたから
 
美しい海と美しい砂浜がある小さな島だった
西に傾いた大きな夕陽が、はるかな水面に、ひとすじの道をつくっていた
僕は自分が一人のおじいさんの傍らに座っていることに気づいた
 
おじいさんは夕陽に、もしかしたら僕に、語り始めた
わしには息子がおった
あの子は水切りが得意だった
石は水面を何度も蹴って、最初は大きく飛び、やがて小さく細かくなって波に飲まれていく
 
いつか島の向こうの国まで届かせるんだと
この浜辺で、夕日に向かってずっと石を投げ続けていたものだ
 
やがてわしよりも背が高くなり
漁の手伝いをするようになった
それでもときどき水切りをしておった
 
やがて息子は立派な戦士になった
そして、島の向こうの国に行った
だが投げた石は決してもどらない
 
どんなに血が流れてもけっして染まることのなかった海が
夕陽に赤く染まるころ
浜辺には波の彼方を目で追うおじいさんの姿がある
 
そして、静かに聞いてくれそうな誰かが通りかかると
この話を静かにはじめる
相手は、人でも雲でも、そして僕でさえもよかったのだ

forTop

風はどっち向き?

突然声をかけられた
 
「風はどっち向きだい?」
 
声の主は土が少し盛り上がったところにあいた穴の中にいた
 
僕は答えた。「森の方から吹いてくる」
 
今度の声はさっきより少し穴の奥からしてくるようだった
 
「そうかあ、もうすぐ季節が変わる。昨日はいつもやさしいとは限らない。明日は見えないまま。風はいつも同じ向きで吹いているわけじゃない…。おまえさんはどうやって次の季節を越えるつもりなのかな?」
 
「よくはわからない。でもどこで歯を食いしばるべきかは、少しは学んだつもりだよ」
 
もうもぐらの声がすることはなかった

forTop

新しい季節の迎え方

不意に今までと違う匂いが僕の鼻先をよぎった
 
池の魚が跳ねるときの匂い
若い葉と葉が擦れた時に生まれる匂い
そしてミツバチが花から飛び立つ時の匂い
 
僕はある朝気づく
そうか季節が変わったんだと
そして季節が変わると
必ず僕が知っているその季節の匂いの中に
1つか2つ、僕の知らない匂いが混じる
 
そして僕は
その匂いが何なのか
この季節がまだ新しいうちに
それを確かめに行くことにする

forTop

渡る

僕は一晩中彼らの話を聞いていた
彼らの声はずっと緊張を帯びている。
そして今朝その緊張は覚悟に変わった
 
これから彼らはいくつかの海と
いくつかの峰と
そしていくつかの夜を越えていく
仲間を失うことのなかった旅路は一度としてなかった
 
闇のなかで眼下に白く光る波頭は、疲れた彼らを
深い海の中にある休息に誘い
眼前にそびえる白い頂たちは、疲れた彼らを
決して覚めることのない眠りへと誘う
彼らはみないつの日か自分がその誘いに従う日の来ることを知っている
ただわからないのは、その定めの旅路がいつなのか…そのことだけだ
 
彼らは本当の闇の話と本当の静けさの話を僕にする
今朝彼らの声は緊張から覚悟に変わった
渡りの時期がもうすぐそこまで来ているのだ

forTop

吹き溜まり

高い夜空に輪郭がくっきりとした月が冷たく輝きはじめた
大きく張った根の間に落ち葉の吹き溜まりを見つけた
少しかきわけて、疲れた足をたたむようにして丸くなってみる
やがておなかのあたりにぬくもりがもどってくる
 
前足を並べて、そこに顎を乗せて、月を見ていると
ある種の思いばかりがよみがえってくる
笑顔を向けてもらったのに、あの時どうして笑顔を返せなかったのだろう
泣いていたのに、あの時どうしてやさしい言葉を見つけられなかったのだろう
せっかく会えたのに、あの時どうして話しかけられなかったのだろう
 
僕の血はそんなたくさんの行き場のない思いが作り出している
僕の血はこんな凍てつく夜に、どんな夢を僕に見せてくれるのだろう
もし月に願いが届くのなら
誰か僕を抱きしめてほしい

forTop

バタフライ・エフェクト

森の向こうに広がっていた青空が消えたいた
代わって黒い雲のかたまりがまるで生き物のように体をくねらせながら、森の向こうに降り立っていた
その体から伸ばされた長い腕はもうすぐそこまで迫っていた
いつの間にこんなことになっていたんだ?
その生き物の腕のあちこちで光が走るのがみえた
雨をしのぐすべは知ってるけど、雷はだめだ
麻痺したように体が動かなくなるからだ
冷えそうな夜を前に土砂降りの中に取り残されるのは危険すぎる
 
僕は急いで、身を隠す場所を探した
迫り来る雷鳴に力を失いそうな体を叱りつけ励ましながら走った
その生き物の指先が僕の体を捕らえるその一瞬前に、僕はかろうじてほらあなに逃げ込めた
なすすべもなく顔を前足の間に沈める
やがて森は闇に沈んだ
時おり激しい光が森の木々を浮かび上がらせ、そのすぐ後に叩きつけるような轟音が森を引き裂く
ぱたぱという音がし始めた
一瞬森が身震いをしたような気がしたと思った直後だった。突然信じられない勢いで雨が降りだした
 
ちょうどそのときだった、一匹の蝶がほらあなに入ってきた。
蝶はためらいがちに、穴の上の方で、行き場を失ったままふらふらとさまよっている
羽を濡らして重そうだ
「食べやしないよ。ここで休んだらどうだい?」
蝶は地面に降りると、ゆっくりと羽を開いたり閉じたりし始めた
「ありがとう。助かったよ」
「どこに行くんだい?」
「ずっとずっと南の島」
僕らはそれからしばらく、旅の途中で起きたことなんかを話した。
雨はだいぶ小降りになった
森はいくぶん赤みを帯びた空の下でいつもの姿を取り戻していた
蝶は言った。「急がないと…ぼくはお先に失礼するよ」
「そうだね。花の季節は長くはなかったんだよね。気をつけてね」
礼を言うと蝶は森の中に吸い込まれて行った。
 
翌日の昼過ぎに、蟻たちが昨日の蝶に良く似た模様の羽を運ぶのを見た
彼のものでないことを祈った
今になって別れ際に彼に伝えるべき言葉を思い出した
僕は情けないことに、肝心なことをいつも手遅れになってから思い出す
「誰にも抗うことのできない宿命があることは知ってる。
でも、それでも、君のその小さな羽ばたきが世界を変えることさえあることを僕は知っているよ」

forTop

夢から覚めるときに見る夢

夕べの記憶と言えば、耳いっぱいに響く激しい雨の音だけだった
そんな夜は、怒りともあきらめともつかない心を抱えながら目を閉じるしかない
ただ無駄に動いて体を冷やすことだけは避けなくてはならなんだよ…
そんなとても現実的な問題を差し出して、心を説き伏せていく
そして説得が優勢になるころ、僕はまどろみはじめる
 
夢から覚めたとき、もう雨が止んでいることをすでに知っている…そんな朝がある
霧が足早に流れていき、やがて青空になることを、僕はすでに頭のどこかで確信してる
夢から覚めるその少し手前、夢と現実のはざかいで、そのどちらにも属さない感覚が目を覚ますみたいだ
そして、閉じたまぶたに映るはっきりとしたもう1つの世界を、
どうしても焦点が合わないカメラのようなまだ覚めきらぬ頭で見ることになる
 
まぶたに夕べの雨の名残の水たまりがたくさん映っている
その水たまりたちは、霧が晴れて、その表にきれいな青空を映し出すことを心待ちにしている
でも、青空を映すようになるその一歩手前で、水たまりの主人公となる者たちが現れる
それは人のようでありながら、でも人とは違う
人にしては小さすぎるし、何より身のこなしが軽すぎる
まるで、羽でも持っているかのようだ
でも、きっとその羽は透きとおったとても薄いものでできているに違いない
羽はまぶたには映らないからだ
僕はやがて、あっちにもこっちにもあるたくさんの水たまりの上でその者たちが踊るのを
ただ息をひそめて見ている
彼らは、あるいは彼女たちは、空を見上げながら、軽やかに舞っている
やがて、その者たちの視線に誘われるように、水たまりの水の分子たちが天に向かって昇りはじめる
僕は不思議なことにその水の分子が何なのかをすでに知っていた
それは悲しみだった
昨日世界を覆ったすべての悲しみの分子たちだった
晴れ始めた朝の光を浴びて、キラキラと光りながら天に昇って行く
その息をのむような光景にたまりかねて、僕はまぶたを開ける
すると、そこにはただ今まさに青空を映し出そうとしているたくさんの水たまりだけが見えるだけだった

forTop

僕らが空気に溶け込むとき

耳元でかすかに僕を呼ぶ声がしたような気がした
わずかにまぶたを開けると
深い緑の森の木々を背景に
月の光に照らされた蝶が静かに舞っているのが見えた
空気の密度の違いをたどるように
その蝶は不思議な弧を連ねながら
やがて僕からほど近い石の上で羽を閉じた
 
「お久しぶりです」聞き覚えのある声だった
心の奥の方に小さなろうそくが灯るようなものを感じた
いつか激しい雨の夜に出会った蝶だった
「無事に南の国に行ってきたんだね。でも飛び方がずいぶん違ったので君とは気づかなかった。
それに…羽の模様もずいぶんと違う気がするけど…」
彼はそれには答えず話を続けた
 
「本当は南の国でも北の国でも良いのかもしれません。大切なことはどこかに行く…そのことなのですから」
僕が彼の話の意味を計りかねていると、彼は綿毛のようにふわっと宙に浮いて見せた
「移動する間に僕らはたくさんの踊りを方をします。心の中にある何かを表現するために…怒り、おそれ、悲しみ、叫び、希望…そういったものです」
 
僕の頭はまだ眠りの中にあるようだ。彼の話を一向に掴むことができないままだった
「誰のために?」
「定められた誰かに出会うためです」
「定められた誰か?」
「そうです」
「出会ってどうするの?」
「憶えていてもらうためです」
「君のことを?」
「いいえ、踊りをです。そして承認をもらうためです」
「承認?」
彼はそれには答えず、高く舞い上がりはじめた
僕は少し声を大きくして彼に呼びかけた
「君がその承認を得られることを願っているよ」
彼はさらに高く遠ざかりながら答えた
その声はまるで彼の舞のように、揺れながらずっと遅れて僕の耳に届いた
「だいじょうぶです。僕はもう承認を得ましたから」
 
彼の姿はもうどの森の木よりも高いところにあるようだった
たしかに彼の舞い方はずいぶんと変化していた
あの嵐のときは空気の流れに負けないように羽を動かしていたのに
今は静かに広げた羽を空気の方が押しているように見える
彼の羽は巧みに向きを変えることで、どの空気の流れに乗るべきかを知っているかのようだった
ときおり羽から落ちる鱗粉が月の光を受けて、彼の位置を知らせていた
僕は言い知れぬ不安を感じた
このまま彼は空気に溶け込んでしまうのではないかと
 
もしかしたら、僕はまだ夢の中にいるのかもしれない
僕の頭は、この現実をはっきりと頭の中に映し出せないままだった
ピンボケの世界の中で、ただ1つはっきりしていたのは
彼が舞うように、僕は僕の承認を得るために走り続けなくてはならないということだった
きっと、いつか上手に空気に溶け込むために
 

forTop