僕らが空気に溶け込むとき

耳元でかすかに僕を呼ぶ声がしたような気がした
わずかにまぶたを開けると
深い緑の森の木々を背景に
月の光に照らされた蝶が静かに舞っているのが見えた
空気の密度の違いをたどるように
その蝶は不思議な弧を連ねながら
やがて僕からほど近い石の上で羽を閉じた
 
「お久しぶりです」聞き覚えのある声だった
心の奥の方に小さなろうそくが灯るようなものを感じた
いつか激しい雨の夜に出会った蝶だった
「無事に南の国に行ってきたんだね。でも飛び方がずいぶん違ったので君とは気づかなかった。
それに…羽の模様もずいぶんと違う気がするけど…」
彼はそれには答えず話を続けた
 
「本当は南の国でも北の国でも良いのかもしれません。大切なことはどこかに行く…そのことなのですから」
僕が彼の話の意味を計りかねていると、彼は綿毛のようにふわっと宙に浮いて見せた
「移動する間に僕らはたくさんの踊りを方をします。心の中にある何かを表現するために…怒り、おそれ、悲しみ、叫び、希望…そういったものです」
 
僕の頭はまだ眠りの中にあるようだ。彼の話を一向に掴むことができないままだった
「誰のために?」
「定められた誰かに出会うためです」
「定められた誰か?」
「そうです」
「出会ってどうするの?」
「憶えていてもらうためです」
「君のことを?」
「いいえ、踊りをです。そして承認をもらうためです」
「承認?」
彼はそれには答えず、高く舞い上がりはじめた
僕は少し声を大きくして彼に呼びかけた
「君がその承認を得られることを願っているよ」
彼はさらに高く遠ざかりながら答えた
その声はまるで彼の舞のように、揺れながらずっと遅れて僕の耳に届いた
「だいじょうぶです。僕はもう承認を得ましたから」
 
彼の姿はもうどの森の木よりも高いところにあるようだった
たしかに彼の舞い方はずいぶんと変化していた
あの嵐のときは空気の流れに負けないように羽を動かしていたのに
今は静かに広げた羽を空気の方が押しているように見える
彼の羽は巧みに向きを変えることで、どの空気の流れに乗るべきかを知っているかのようだった
ときおり羽から落ちる鱗粉が月の光を受けて、彼の位置を知らせていた
僕は言い知れぬ不安を感じた
このまま彼は空気に溶け込んでしまうのではないかと
 
もしかしたら、僕はまだ夢の中にいるのかもしれない
僕の頭は、この現実をはっきりと頭の中に映し出せないままだった
ピンボケの世界の中で、ただ1つはっきりしていたのは
彼が舞うように、僕は僕の承認を得るために走り続けなくてはならないということだった
きっと、いつか上手に空気に溶け込むために
 

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