夢からの使者

何かの気配を感じて僕は浅い眠りから目が覚めた。
目を開けると1匹のバッタが透き通った羽を見えない速度で動かせながら空中に止まっていた。
もちろん、そんなバッタを見るのは初めてだ。
「きみにお願いがあるんだ」
バッタは、自己紹介もなく、眠りの邪魔をした詫びもなく、唐突に話し始めた。
「夢をみてほしんいんだ」
「夢を?」
「そう、夢を」
もちろん、誰かからそんなお願いをされたのは初めてだ。
「どんな夢を?」
「それはわからない。ただ君自身の夢であればかまわない」
「なんだってそんなことを僕に頼むんだい?」
「君は夢の世界が実は本当で、目覚めている世界の方が虚構の世界だって思ったことはないかい?」
もちろん、夢についてそんな質問をされたのは初めてだ。
「ないと思うけど」
「夢は夢で1つの世界がある。それはみんなの夢で成り立っている。
誰かが悪い夢を見れば、世界は少しだけ暗くなり、
誰かが楽しい夢を見れば、世界は少しだけ明るくなる
もちろん、象徴的に表現しているのであって、世界の成り立ちはそんなに単純ではないけれど…」
「君の言うことがよくわかないんだけど」
 
「では、少し言い方を変えてみよう。
君が誰かの話を聞いたとしよう。
君がとても肯定的な気持ちが強ければ、当然肯定的な態度を取る。
その結果、その話し手も肯定的な気持ちを増すはずだ。
そうは思わないかい?」
「まあ、そんな気はするけど」
「もし、君が否定的な態度を取ったとする。そうすると話しかけた方も否定的な気持ちを増すはずだ。
そして、そのことがその話し手のその後の言動を少しだけ、否定的な方にずらす可能性が増す。
ここまではいいかい?」
「うん、特に反対する理由もないような気がする」
「話し手の行動は少しだけ否定的な方にずれる。
そうすると、その後で関わった相手の感情も、少し否定的な方にずれる可能性が増す。
特に、怒り、ねたみ、傲慢、恐怖…といった感情はこの作用を強く持つ」
「肯定的な気持ちより、否定的な気持ちの方が影響力は大きいって、君は言いたいの?」
「その通りだ。
なぜなら、恐怖は怒りを受け入れる土壌を作るし、傲慢はねたみを受け入れる土壌を作るからだ」
「それで、君は僕に良い夢を見てほしい…そう頼みたいんだね?
そんなうまくいくとは思えないけど…願った通りの夢を見るなんてこと…」
「もちろんさ。
どんな夢を見るか予め決めておくことはできない。
もしできたとしたら、それはもう夢ではなくなってしまう。
夢の中で起きることを君は支配することはできない。
君の夢で起こる出来事を支配しているのは、あくまで夢の世界だ。
夢の世界では、何が起こるかはすでに決められている。
問題は、問題自身にあるのではなく、君がどういう感情を持つかということだけだ。
そのことで、目覚めたときに思い出す夢の話はまったく違ってくる。
本当は同じ夢の世界なのに、悪夢として思い出されたり
良い夢として思い出されたりする」
 
もちろん、夢について誰かとこんなに難しいことを語り合ったのは初めてだ。
「じゃ、君は僕に何をしてほしいって言うんだい」
「夢を見てほしい。
それも夢らしい夢を。
最近、夢らしい夢が減っている。
みんなの見る夢が希薄になっているんだ。
それは夢というより、考えごとや独り言のようなものだ。
そこには切実な感情の動きがない。
だから良い夢でもなく、悪い夢でもなく、なんとなく見た気がする程度の記憶しか生まない。
そのために夢の世界は、深刻な材料不足になっている。
このままじゃ、じきに夢の世界が崩壊してしまう」
「夢の世界が崩壊すると、いったい何が起こるんだい?」
「僕のいるべき空間がなくなる。降り立つ地面も、吸うべき空気もなくなる。
それが世の中にどう影響するのかはわからない。
もしかしたら、なくなったことにさえみんなは気づかないのかもしれない。
でも、もしかしたら、この目覚めている世界もなくなるのかもしれない。
きっと誰にもわからない。
なぜなら、その喪失を感じる意識もなくなるから。
もしかしたら、僕らはそうしてすでにいくつかの世界を失ってきたのかもしれない」
「君の話は、理解の手が届きそうになると、また遠くに行ってしまう。
でも、とても大切なことを伝えようとしているような気もする。
良くはわからないけど、さっきから僕の頭の奥の方が少しズキズキしているから。
僕の頭は、ずっと使うことがなかったさびついた部品を集めて、
何か古い時代に忘れてきた、オルゴールでも作ろうとしているのだろうか?
でも、そのオルゴールの音は、僕の知らない、僕のおじいちゃんが好きだった曲だったりするような気がする。
それで、僕はどうしたらいんだい?」
バッタは、3番目と4番目の手、もしかしたら足、の間に持っていた豆を僕に差し出した。
眠る前にそれを飲んでほしい。
そうすれば君は夢らしい夢を見ることになる。
もう、僕は夢の世界に戻らなくちゃいけない。
これを頼めるのは君しかいないんだ」
「どうして、僕なんだい?」
「忘れたいのかい? 約束があったからだよ」
 
「いったい僕は誰とどんな約束をしたって言うんだい?」と
くるっと後ろを向いたバッタにそう言おうとした。
バッタは思いのほか早く遠ざかろうとした。
身を乗り出して、叫ぼうとしたとき、
僕は夢から覚めた。
なんだ、これも夢だったのか?…そう思った僕は
そう思った僕は、次の瞬間に1つのことに気づいた。
僕が夢で見た、バッタから渡された豆が、まさに僕の目の前にちょこんと置かれているのに。

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