春を行く

20180325-1

僕らはなぜ桜をこれほどまでに愛するのだろうか?ほかにも美しい花はたくさんあるのに・・・
里の春、山の春、土手の春、谷あいの春、人里を離れたひっそりした場所の春、都会の雑踏の中にもある春・・・どこにあってもこれほどまでに春の到来を告げるのにふさわしい花はない。桜の花を見るときの喜びは、きっと長く厳しかった冬の記憶があるからこそのものなのかもしれない。
 
先日、行きつけの小さなレストランのカウンターに座って、マスターと雑談をしていたときのことだった。マスターの少年時代はなかなか優秀な野球少年だった。甲子園を夢見たこともあったようだ。しかし、ひざを悪くして、夢は消えた。大人になって、少年野球のコーチをしばらくやっていた。その彼の言である。
「素質のある投手を何人か見てきた。その中で、窮地になったときに、キャッチャーのサインにうなずくだけのやつは結局素質はあっても伸びない。時には首を振る気骨のあるやつの中に大成するピッチャーがいるんだ。」
首を振って投げた球でも、結局は打たれることも多い。でも、もうだれの責任にすることもできない。素質のある少年の中で、大成するためには、その気骨があることが大事な条件であるようだ。そして、その気骨のある少年の中で、大成する次の条件は、「素直であること」・・・だそうだ。
状況に対して、心が逃げていない・・・そして自分からも心が逃げていない・・・このことはどんな世界でも求められることのようだ。結局、この2つがないと、社会人としても信用はされないのだから。
 
さて、それから数日経って、ある介護施設を経営している女性社長とお会いした。女性社長はこんなことを話してくれた。
「ものの本で読んだのですが、心は魂が司るものだそうです。施設にいる方の最期の瞬間に立ち会うことがある。そんなとき、私の心は「私はここにいたくない」と悲鳴をあげます。立ち会うことはつらいです。ここから逃げ出したいのです・・・でも私の魂は私に「ここに留まっていなさい」というの。そして、私は留まることになる。そして最期の瞬間を迎えたとき、私の魂が私を穏やかな心にしてくれるの。」
彼女はそう言いながら、さまざまなことを思い出されたのだろうか、涙を流された。これほど魂と心の関係を見事に表現された話を僕は聞いたことがなかった。思わずこちらも目頭を熱くしてお聞きした。
 
桜は魂に共鳴する花なのかもしれない。それは長くつらい冬を超えてきた心に対して、魂が呼応しているのかもしれない。
僕は会社の集う人の魂のために経営をしたい。いっしょに魂を成長させたい。心ばかりの人とは相いれない会社の魂でありたい。それ以外のことは小さなことだと本当に思う。
 

チャンスはピンチをまとってやってくる

20180119-1

会社はいま大きなチャンスの中にある。しかし、「チャンスはピンチをまとってやってくる」は真理なので、チャンスは必ずピンチを伴っている。心が狭くなるとこのピンチばかりが目に付く。チャンスなのにちっとも晴れ晴れした顔にならない。人には誰でも等しくチャンスは巡ってきているはずなのに、これだと幸運の女神はけっして微笑まない。やはり微笑の絶えない幸運の女神は、同じように微笑みが絶えない人が好きなようである。
 
さて、なぜチャンスはピンチを伴うのだろうか?それも結構深刻なピンチの顔を僕らに見せ、戸惑わせる。なぜならチャンスの芽は、そのまかれた種の土壌が良いことを求める。岩の上や、道端に落ちた種は芽を出さない。一人一人の心の土壌、組織としての土壌が良いことを求める。チャンスは活性化した土壌に芽を出す。かたくなな土壌では芽は出せない。このことをもう少し言い換えてみたい。
 
チャンスが到来すると、ものごとの回転は速くなる。そして、未知の要素も増える。プレッシャーも高まる。誤魔化しが効かなくなる。チャンスというと、お花畑の中にいる自分になれる世界を思い描くかもしれないが、現実はそれと真逆。荒れ野の中で、行くべき世界や方向がはっきり見えたとき、それがチャンスなのであって、自分自身はその場所には決していない。もしかしたら、それは一番自分の喉が渇いているときかもしれないし、足が疲れているときかもしれない。
 
そういうとき、人はどうなるのだろうか?僕は学生時代から登山をしているが、そういうとき僕自身が自分自身の本性を見せつけられることになる。誤魔化しの効かない自分、隠れていた自分をのぞき込むことになる。そして、その本性と言ったらいいのか、自分の中に隠れていた嫌な存在は、自分をいらだたせたり、自分を卑屈にしたりする。なぜなら、本性は隠れたまま増殖を続けたいから。怒ってしまえ、いら立ってしまえ、誤魔化してしまえと自分を誘惑する。もし、その誘惑に負けて、いら立ったら、「結局自分の足で歩かない限り、自分は頂上には立てない」という当たり前のことさえ消えて、本性は今度は自分に言い訳探しの誘惑をしかけてくる。そして、夜明け前が一番暗いという真理を見失う。
 
ピンチは、自分の最も嫌な本性をのぞき込まなければならない局面である。言い換えれば、自分の本性が自分を最も強く誘惑してくるときである。しかし、言うまでもなく、自分の何かを克服する最大のチャンスでもある。謙虚な心にならないと、自分の中にある、鎧を着た嫌な部分を引っ張り出して、天日干しをすることはできない。
 
チャンスは自分や組織にある課題を浮き彫りにするかもしれない。でも個人も組織もそれを結局歓迎するしかない。それと向き合うしかない。そのときピンチに隠れていたチャンスが顔を僕らに見せてくれる。
そして、求めていたお花畑にいる自分は、自分の周りにある世界ではなくて、自分の心の中にある世界であることを気づかせてくれる。
 
「チャンスはピンチをまとってやってくる」…本当に真理だなあと思う。
まずは微笑みから。
 
写真は1月2日のスーパームーン
 

E = mc²

20171123-1

E = mc²はエネルギーと質量が等価であることを表したアインシュタインの式ですが、エネルギーは物質に、物質はエネルギーに変わることを意味します。エネルギーを転換すれば無から質量(物質)が生まれる、言い換えれば、質量(物質)はエネルギーである…1つの哲学的境地を感じさせるような式です。
 
私たちがいるこの宇宙は、およそ138億年前に、一瞬で1mmくらいの大きさが1000億光年の広さに達するビックバンから始まったと言われています。宇宙には太陽系が属しているこの天の川銀河のようなさまざまな7兆以上の銀河があって、その銀河には数千億の太陽のような恒星があり、その恒星の周りには私たちの地球のような惑星が存在し、その中にはさらに月のような衛星も存在します。
冒頭の写真はハッブル宇宙望遠鏡がとらえたもので、約1万の銀河が写っているそうです。宇宙に存在するすべての物質を足したものに匹敵するエネルギーのすべてが、1mmにも満たない大きさの中に圧縮されていた…この話はどこまでいっても僕には哲学的です。
 
さて、会社もこれと同じ法則が生きている気がします。エネルギーは形と等価です。形は利益かもしれませんし、形は官僚的な形式化かもしれません。エネルギーを外向きに使う作用が働けば、利益となるでしょうし、エネルギーが内向きに使われる作用が働けば、社内の調整やルール作りに費やされることになりそうです。同じエネルギーであるなら、社内調整に使われる割合が小さいほど利益は大きくなることを意味します。もし社内調整が求められるなら、エネルギーの使われ方ではなく、それはエネルギーそのものを大きくする採用をもたらすものでありたいです。そうでなければ会社にはマイナスになります。会社の課題は、どうやって、式の左側のエネルギーを大きくするか、そして、それを内向きに使われないようにするか、にかかっています。cに相当する運動は心のベクトルなのでしょうか。 それはPhilosophy=考え方と言い換えられるかもしれません。考え方が間違っていれば、会社は結局のところ間違った場所に移動してしまいます。
 
私たちは、今もなお猛烈な速度で膨張を続ける広大な宇宙の片隅にいます。移動を続け、変化を続けることが私たち人間の、そして社会の、そして会社の宿命です。移動をやめる、変化をきらうということは、エネルギーを持たないものとなることを意味します。
 
ところで、この宇宙は最初の数秒間で、今の宇宙を成り立たせている物理法則がすべて確立したのだそうです。「1秒はセシウムの原子放射の100億周期にかかる時間」という定義とは別に、変化量をもとに、変化が大きいと時間が進み、変化が小さいとゆっくり進むという時間の考え方があるそうです。そうすると、宇宙誕生から今までの時間では、最初の数秒が最も長く、それ以降の138憶年の方が短くなります。もしかしたら、私たちの時間もこれに近いのかもしれません。充実した時間は長く、たまにはのんびりもいいですが、無為な時間は短くなりそうです。1秒が何百億年より長くなることがあり得るのですから、同じ人生100年でも、1000年分生きることもできるでしょうし、その逆もあり得ます。あなたの変化量による時計の進み方はいかがでしょうか?
 
それにしても、最初の1mmにも満たない大きさの中にあったこの宇宙全体に匹敵する膨大なエネルギー・・・そのエネルギーは何がもたらしたものなのでしょうか。やはりどこまでいっても哲学的ですね。
 

変えるべきではないもの、変えるべきもの

20171120-1

 
訪問先はカナダの首都オタワから車で1時間ほどのところにありました。広大なトウモロコシの穀倉地帯を抜けて、オンタリオ湖にかけられた細い長い橋を渡りました。橋を渡るとカナダとアメリカの国境を越えたことになります。橋のたもとには高速道路の料金所のようなゲートが並び、そこで車中の人の全員分のパスポートをこれもまた料金所のブースにいる人のような係員に渡します。日本人である僕はここで車を降り、検問所に入ります。まず片手の4本の指を10㎝×5㎝くらいのガラスに当てて、OKと言われたら次に親指だけを当てます。終わったら反対の手の指も同じようにスキャンして、こうして僕の手のすべての指の指紋は、たぶんアメリカのデータベースに登録されたのだと思います。簡単な質問を受けて、僕のパスポートには、3か月後の日付の入ったビザの紙がホッチキスで留められました。訪問先はその国境の検問所から、本当に目と鼻の先にありました。
 
訪問先では社長が自ら玄関口で僕らを笑顔で迎えてくれました。柔和な笑顔にあっても、眉間の皺は哲学者のような頑固さを感じさせます。集まったゲストは全部で10人。インド人、メキシコ人、コロンビア人、カナダ人、そしてアメリカ人。僕らはここで2日間、みっちりと主要な製品の特徴と操作方法を学び、マーケットの情報の交換をしました。
 
現社長は2代目。父である創業者が拡張した建屋に、さらに現社長が建屋を増設し、新旧2つの建屋は廊下で結ばれています。旧建屋には、ボール盤やミルなどのいかにも年代ものの加工機が数台並んだ工房がありました。創業者はここで装置を開発したそうですが、今でも試作機はここで生れることもあるそうです。この部屋はたぶんに象徴的な存在なのかもしれません。
 
彼らはASTMやISOなどの検査規格に合わせて検査測定器を開発するというより、それを先取りして開発をしています。そして、開発が成功し、試験精度や試験レベルが向上できることが確かめられると、今度は規格の改変を働きかけます。既存の規格の問題点を指摘し、それがすでに時代遅れになったことを説得するわけです。僕もISOの規格改変に携わっていますが、これにはどれほどタフで気の遠くなる交渉が求められるかは容易に想像できます。
 
規格の改変には、複数の国が改変の提案をすることに同意し、それを受けて各国のワーキンググループがそれぞれ意見集約を行ないます。その結果を踏まえて、各国の代表者が集まる会議で採否が図られます。ISOの追加・変更・廃止はこうして決まりますが、日本では、さらにこれをJISに反映する手続きが必要になります。残念ながら翻訳や内容の吟味には時間がかかるため、ISOが変更されても、JISに反映されるまでには、およそ年単位の時間が必要になります。
 
さて、話はもとに戻しましょう。なぜ2階建てにしないかというと、それによってコミュニケーションが分断され、移動距離が長くなるからだそうです。新製品の紹介は社長の息子さんがされていましたが、すでに3代目になられることが決まっています。現社長は、「自分たちはカナダ人です。カナダに比べるまでもなくアメリカはビッグなマーケットなので、米国籍の企業になっていますが、自分たちの気質も会社のポリシーも「カナダ」です。具体的には競争よりもコミュニケーションを大切にしています」と強調していました。基板の組み立てラインやWebのための簡易の撮影セットも含めて、およそすべての会社の部署を見せてくれました。
 
たしかに大切な何かを失わないようにしていることがよくわかります。そのために、時にアメリカ気質から見れば、偏屈であったり、頑固者に見えるのでしょうけど、常に本音と本物を追求しようとしている姿勢が随所に見られます。招待された各国のゲストとも、率直でときに熱い議論をしていました。そこに今の日本の企業が失いかけている何かが見えた気もします。僕らはめまぐるしい変化にばかり気を捉えられていて、どこかで本音や本物を封印してきてしまったのかもしれません。そこにとても危ういものを感じます。世界が日本の品質に求めてるものを見失ったまま、変化に追随することばかりを考えていると、結局どこまでいっても、たとえ先頭集団に入れたとしても、トップランナーにはなれないのだろうという気もします。
時代の価値観を超えることのできる頑固さは、すがすがしくもありました。社員はそれはそれでたいへんでしょうけど、部品や製品の扱い方がとても丁寧なことをみても、それがこの会社の底辺から頭までを貫いている背骨になっていることは容易に想像ができました。
 

揺れるマンション

20171029-1

唐突に修繕積立金が大幅に不足している…という話が理事会を通じて持ち上がった。大規模修繕の予定を来年に控えた間際の時期に突然に知らされた現実であった。管理会社のアドバイスに従って、理事会は住民に対して、不足分を各住民が一時に払うのか、それとも住民全体で借り入れを行ない長期に返済していくのかという2者択一のアンケートを行った。その結果は、真っ二つに割れた住民の意思であった。その実情を説明するための総会で事態は動き始めた。管理会社は、積立金の不足理由として、消費税率のアップ、地震・オリンピックによる建築資材と人権費の高騰を挙げた。しかし、一部の住民から、一度冷静になって、何が何でも来年やるべきなのか、もう一度計画を精査して計画を練り直すために少しだけ先延ばしすべきなのかを検討したらどうか・・・という意見が出た。総会の全体の空気が変わった瞬間だった。もしかしたら、予定取りに事を進めようとする管理会社主体の運営が、住民主体の運営に変わろうとした転換点だったかもしれない。引き続き行われたアンケートで、住民の総意は「延期」と決まった。もちろんこれで問題が変わったわけではない。しかし、問題をどう捉えるかが…が大きく変わった。「延期」という総意により、住民は問題が自分の外にあるのではなく、自分の中にあることの自覚が問われることにもなった。第2回目のアンケートの説明会には、いつになく多くの住民が出席した。その中で、住民から管理会社に、「なぜ積立金は潤沢にあると言い続けてきたのか?」という質問があった。そして「事態が明白になったときにどうしていったん冷静になって全体の計画を練り直しましょうという選択肢を提示できなかったのか?」「工事内容を管理会社が指定して複数社に対して相見積をさせたということだったが、そもそもその工事内容の適否はどう判断したのか?」という質問が続いた。管理会社の担当者2人は前回までの勢いを失った。急に歯切れが悪くなった。しかし、担当者2人の態度や表情は意外なことを感じさせた。本当のことを言いたい個人と企業人としての葛藤がそうさせているように思えたからである。住民の側に立って言うべきなのか、企業の側に立って言うべきなのか、立ち位置をはかりかねているという印象を受けたのである。調子よいことを言って問題を先延ばしようと思ってきたのではなく、もっと別の力が二人を縛っていたのかもしれない。
『揺れる組織』の原因はここにあるのではないだろうか?管理会社の担当者2人の苦しい表情を見ていて、これもまた他人事ではないと思われた。自分の会社はどうなのだろうか?
 
会社は『やってはいけないこと』を定めなくてはならない。そして、そのやってしまったことの重大さに応じて罰則を適用しなければならない。会社のお金を勝手に使ってはいけない。勝手に出張をしてはいけない。勝手に発注をしてはいけない…考えてみればばかばかしいほど当たり前のことでも、お堅い言葉で明文化しなければならない。本当はそんなことを書かなくて済む組織が理想なんだろうけど、現実はそうはいかない。京セラの創始者・稲盛和夫さんは、「罰するためではなく、本来人は誘惑に弱いものなので、悪い誘惑から社員を守るためにルールを決めなくてはならない」と言われている。最も大事な視点だと思う。
ケースに応じて「問題を持ち返って、社で検討してからお答えします」と答えるように指導するのは、人は「人に好かれたい」という誘惑に弱いものなので、理性的に判断する機会を自分で作るようにさせる工夫でもある。
 
しかし、人は時に「どこがいけなかったというんですか?」という憤りを表面に出す。ルールを決めるだけでは『いけないことをしていないのだから、自分は間違っていない』という大きな勘違いを生む。これはとても深刻な勘違いである。管理会社の担当者2人の困惑は、「人として」より、「会社人として」の価値の方が下にあってもいいんだと認めてきてしまった結果なのだろうと思う。会社は、どこまでいっても、どこを切っても、「会社人として」より「人として」の方がずっと上になくてはならない。「人として」の高きを求めることこそ「会社人として」正しい姿勢であることをフィロソフィーで明確にし、繰り返しそれが社員の心に浸透する働きをあきらめないようにしたい。何のための人生なのか…、会社や仕事のために人生があるのではなくて、人生の大きな目的のために、仕事があることを、会社がちゃんと伝えていないと、管理会社の担当者2人が抱えた葛藤は解消しないのだろうと思う。二人が同時に当惑した姿を見せたのだから、やはり会社の文化に問題があるのではないかと感じてしまう。そして、そのことは決して対岸の火ではない。
 
「間違ったことをしていないのだから責められることはない」「失敗をしていないのだから責められることはない」という本質的な勘違いから僕たちは何とかして脱したいと思う。そのためには、「会社人として」より、ずっと高いところにある「人として」のフィロソフィーを会社はきちっと伝えていかなければならないし、同時にまた、他社に誇れる自社のフィロソフィーであっても、そのフィロソフィーの前では社員が謙虚になれる文化を立ち上げないといけないと思う。そうでないと、「どこがいけなかったというんですか?」というおごりを解消することはできないと思うから。
そして、自分自身の「人として」の高きを求める姿勢がないと、顧客満足の本質も見えないのだと思う。