涙は海の味がした

涙の訳はなんですか?
そして、涙を流せる場所がありますか?

ずっとずっと以前の話です。
悲しいことがあって、僕の前から走り去って、廊下の陰で泣いているわが子をみて
親としてこのままじゃいけないと思ったことがありました。
泣くことはそんなに恥ずかしいことなんかじゃないんだと、ちゃんと教えていなかった自分を恥じました。

少し前に、絶望の暗闇に突然放り込まれた人が、その暗闇の中にかすかな明かりを見出した時に、涙するのを見ました。気持ちの整理をして明日に向かう希望をなんとかつかみたい…そういう切なる涙があることも知りました。そして、この人は「泣く場所がほしかったのだ」と気づきました。 過酷な状況は何も変わっていないのです。でも涙をすることで、それを受け止める心は少しだけ、動くことができたようです。気づけば僕の目にも涙がありました。

泣かずに生きられるほど、生きることは簡単ではないし、機械的なものでもない気がします。
でも僕らは、敢然と生きなければなりません。
やるべきこと、到達すべき場所があり、守るべき心があります。
そのための汗として、涙は我慢するものでもなければ、恥ずべきものでもないと知りました。

『すぐれたチームをつくり、自分を高みに引き上げ、自らに課した制約を超える』というお話の中で、「 全人格をかけて仕事をする」「グリットを持っている」「苦しいときにこそ前に出る」そして、リーダーは「人を大切にするには、人に関心を持たなくてはならない」「リーダーが率先してメンバーを助けることによって組織がそうした共感を正当化することができる」ということを学びました。
定型の仕事をたんたんと行う時代はとっくに過ぎました。「全人格をかけて仕事をする」時代です。「仕事をしている自分」と「素の自分」の垣根もとても低くなっているはずです。そうであるなら、チームの中に笑いもあり涙もあるのが自然で健全です。

仏教では貪欲・瞋恚・愚痴を三毒というそうです。その中で最も恐ろしいのが愚痴(ねたみ・そねみ・嫉妬)と言われています。聖書でも、憤怒、嫉妬、虚栄(傲慢)は、怠惰などと並んで遠ざけるべき感情とされているようですが、涙を嫌う考えはないようです。
涙のわけが、なんであるのかを自分でも知る必要がありますね。
でもそれは涙を流してみないとわからないことなのかもしれないのです。

愚痴を言って涙をこらえるより、涙して本当の自分の心を知り、そしてまた歩き出しませんか?

ところで…、涙は海の味に似てますね。