実験室の夢

20170618-1

今日も一人閉じこもって、得体のしれない物体を溶かす実験に没頭している。
もうどれくらい、この実験をしているのだろうか?
記憶でたどれる限り、ずっと一人ぼっちで戦っているような気さえする。
 
白い壁に覆われた広く長細い実験室の真ん中には、ちょうどおへその高さくらいの長細い黒い天板の作業テーブルがあって、その上には、同じように細長い3段の棚が置かれている。
一番下の棚には、この実験のために誰かが新たに用意してくれた試薬の小瓶がたくさん並んでいる。そしてその上の中段には、ずっとずっと以前からある試薬が並んでいる。そして、一番上の棚、背伸びして届くか届かないかの位置に、1つだけ試薬が置かれている。どの試薬のラベルにも化学名と化学式が書かれているのに、この一番上の棚にある試薬のラベルだけは、その場にそぐわなかった。何しろ、化学名もなければ、製造日も書かれていない。ただスマイルのマークだけが大きく書かれている。
 
一番下の段の試薬は、この実験のために初めてその封が解かれたものばかりだ。中段にある歴史を感じる試薬たちの封はどれも開けられていて、下段の試薬に比べればずっと大きい瓶なのに、どれも半分かそれ以下しか残っていない。調達の係りの話だと、中段の試薬は無尽蔵にあるので、無くなる心配はないそうだ。一番上のあの人を馬鹿にしたようなスマイルの瓶だけは、ここからでは封がそのままなのか、すでに開けられた形跡があるのかをうかがい知ることはできなかった。
 
今日も得体のしれない物体が入ったビーカーとずっと睨めっこをしている。もし、この得体の知れない物体を溶かすことができれば、次の配属先が決まっているのだが、どうしても溶かすためのレシピが見出せないまま月日が過ぎていた。この棟に残っているのは、残念ながら過去にこの実験に失敗した人ばかりなのだが、いくつかの貴重なアドバイスを残してくれていた。中段の試薬は、反応を促進したり、試薬同士の溶解を確実にしたりしてくれるそうだ。最後の鼻薬として欠かせないもののようだ。そして、みな決まって「あの最上段の試薬に頼るようじゃこの難しい仕事は務まりゃしないさ」と冷笑を込めて言う。
 
来る日も来る日もまだ試したことのない組合せに挑戦する。今日もすでに38通りの組み合わせを試した。もう夜の9時30分になろうとしている。残業が許されている時間も残りわずかしかない。決まってこのくらいの時間になると考えることがある。この試薬を用意してくれた人物か、あるいは組織は、肝心な試薬を調達していないんじゃないかと…。
39通り目の組合せを試した時だった。緩慢ではあるが溶解が速まったような気がした。だがもう時間がない。最後に中段の試薬から2つを取り出して、それに加えてみた。激しい泡が発生し始めた。ついにレシピは完成したのか。その激しさで、ビーカーの中の物体はまったく見えないほどだ。心臓が高鳴るのを覚えた。10分ほどしただろうか。急に泡が穏やかになり、すっと液体が透明を取り戻した。見ると物体はむしろ大きなってしまっていた。思わずさけんだ。「この中には肝心な試薬がないんだ。調達したやつらは何やってるんだ!」
最後の3分で、レポートを書いた。揃えられている試薬が適切でないことを理路整然と記した。この努力を責めることができる人はきっと一人もいないだろう。それでも、やはりうなだれて、複雑な思いを抱えたまま実験室を後にするしかなかった。実験室の頼りないドアを閉め、棟を出る頑丈な金属の扉を閉めると、セキュリティーのためのロックがかかった。今日という日の終わりをつげる音だった。
 
誰もいなくなった実験室。誰もが寝静まったころ。実験室はわずかな明りに照らされた。試薬のラベルの文字がぼんやりを光り始めた。光っているのは、中段のいくつかの瓶とあの一番上の瓶だった。光っている中段の瓶を見ると、「虚栄」「嫉妬」「恐怖」「保身」「怒り」などの文字が読めた。そして、一番上の瓶にはこう書いてあった…「運」。わずかな明かりで実験室のドアの上の表札もかろうじて読めた…「自分」。