揺れるマンション

20171029-1

唐突に修繕積立金が大幅に不足している…という話が理事会を通じて持ち上がった。大規模修繕の予定を来年に控えた間際の時期に突然に知らされた現実であった。管理会社のアドバイスに従って、理事会は住民に対して、不足分を各住民が一時に払うのか、それとも住民全体で借り入れを行ない長期に返済していくのかという2者択一のアンケートを行った。その結果は、真っ二つに割れた住民の意思であった。その実情を説明するための総会で事態は動き始めた。管理会社は、積立金の不足理由として、消費税率のアップ、地震・オリンピックによる建築資材と人権費の高騰を挙げた。しかし、一部の住民から、一度冷静になって、何が何でも来年やるべきなのか、もう一度計画を精査して計画を練り直すために少しだけ先延ばしすべきなのかを検討したらどうか・・・という意見が出た。総会の全体の空気が変わった瞬間だった。もしかしたら、予定取りに事を進めようとする管理会社主体の運営が、住民主体の運営に変わろうとした転換点だったかもしれない。引き続き行われたアンケートで、住民の総意は「延期」と決まった。もちろんこれで問題が変わったわけではない。しかし、問題をどう捉えるかが…が大きく変わった。「延期」という総意により、住民は問題が自分の外にあるのではなく、自分の中にあることの自覚が問われることにもなった。第2回目のアンケートの説明会には、いつになく多くの住民が出席した。その中で、住民から管理会社に、「なぜ積立金は潤沢にあると言い続けてきたのか?」という質問があった。そして「事態が明白になったときにどうしていったん冷静になって全体の計画を練り直しましょうという選択肢を提示できなかったのか?」「工事内容を管理会社が指定して複数社に対して相見積をさせたということだったが、そもそもその工事内容の適否はどう判断したのか?」という質問が続いた。管理会社の担当者2人は前回までの勢いを失った。急に歯切れが悪くなった。しかし、担当者2人の態度や表情は意外なことを感じさせた。本当のことを言いたい個人と企業人としての葛藤がそうさせているように思えたからである。住民の側に立って言うべきなのか、企業の側に立って言うべきなのか、立ち位置をはかりかねているという印象を受けたのである。調子よいことを言って問題を先延ばしようと思ってきたのではなく、もっと別の力が二人を縛っていたのかもしれない。
『揺れる組織』の原因はここにあるのではないだろうか?管理会社の担当者2人の苦しい表情を見ていて、これもまた他人事ではないと思われた。自分の会社はどうなのだろうか?
 
会社は『やってはいけないこと』を定めなくてはならない。そして、そのやってしまったことの重大さに応じて罰則を適用しなければならない。会社のお金を勝手に使ってはいけない。勝手に出張をしてはいけない。勝手に発注をしてはいけない…考えてみればばかばかしいほど当たり前のことでも、お堅い言葉で明文化しなければならない。本当はそんなことを書かなくて済む組織が理想なんだろうけど、現実はそうはいかない。京セラの創始者・稲盛和夫さんは、「罰するためではなく、本来人は誘惑に弱いものなので、悪い誘惑から社員を守るためにルールを決めなくてはならない」と言われている。最も大事な視点だと思う。
ケースに応じて「問題を持ち返って、社で検討してからお答えします」と答えるように指導するのは、人は「人に好かれたい」という誘惑に弱いものなので、理性的に判断する機会を自分で作るようにさせる工夫でもある。
 
しかし、人は時に「どこがいけなかったというんですか?」という憤りを表面に出す。ルールを決めるだけでは『いけないことをしていないのだから、自分は間違っていない』という大きな勘違いを生む。これはとても深刻な勘違いである。管理会社の担当者2人の困惑は、「人として」より、「会社人として」の価値の方が下にあってもいいんだと認めてきてしまった結果なのだろうと思う。会社は、どこまでいっても、どこを切っても、「会社人として」より「人として」の方がずっと上になくてはならない。「人として」の高きを求めることこそ「会社人として」正しい姿勢であることをフィロソフィーで明確にし、繰り返しそれが社員の心に浸透する働きをあきらめないようにしたい。何のための人生なのか…、会社や仕事のために人生があるのではなくて、人生の大きな目的のために、仕事があることを、会社がちゃんと伝えていないと、管理会社の担当者2人が抱えた葛藤は解消しないのだろうと思う。二人が同時に当惑した姿を見せたのだから、やはり会社の文化に問題があるのではないかと感じてしまう。そして、そのことは決して対岸の火ではない。
 
「間違ったことをしていないのだから責められることはない」「失敗をしていないのだから責められることはない」という本質的な勘違いから僕たちは何とかして脱したいと思う。そのためには、「会社人として」より、ずっと高いところにある「人として」のフィロソフィーを会社はきちっと伝えていかなければならないし、同時にまた、他社に誇れる自社のフィロソフィーであっても、そのフィロソフィーの前では社員が謙虚になれる文化を立ち上げないといけないと思う。そうでないと、「どこがいけなかったというんですか?」というおごりを解消することはできないと思うから。
そして、自分自身の「人として」の高きを求める姿勢がないと、顧客満足の本質も見えないのだと思う。