80:20 大切なのはどちらなのか?

20170221-1

 
思いがけないアクシデントが起きました。頭の中は、どうしてそんなことが起きてしまったのか…その原因を探しはじめます。そして、いくつもの要因とそれによって引き起こされうるいくつかの結果が、フラッシュのように目まぐるしく頭に浮かんできます。そして、その次には、自分の行動に対する正当化が始まります。複雑な因果関係の網の目はやがて整理され、頭の中で多数決が行われます。その結果は「私が悪いという動議は圧倒的多数で否決されました」となり安堵します。
たしかに多数決においては、僕は「悪くない」に分類され、そのように記憶されるのかもしれません。でも企業人として考えるとき、僕の行動は…僕の考え方は、正しいとは言えないような気がします。
 
もしかしたら、僕らは知識と努力に頼り過ぎているかもしれません。たしかにそれは必要です。「歩く百科事典」のような人並み外れた知識の集約度を披露することは、ちょっとした集まりで周囲の感心を呼び込むほどに、たしかに爽快ではあるでしょう。例えば、テニスで言えば、知識は正しいスイングの軌道であり、努力はフットワークだと言い換えることができるかもしれません。でも、それだけで試合に勝つことはできません。これらをコントロールし、流れに応じて試合を組み立てていく肝心なものが必要です。
 
流れに応じて試合を組み立てるものは何か、仕事においてそれは「知恵」です。知識をいくら積んだとしても、ただただハードな計画を立ててみても、知恵の木は成長しないでしょう。知恵は、心の汗なしには育たないもののようです。僕の経験から言えば、失敗や挫折の中にこそ、知恵を最も成長させる要素がありました。テニスで言えば、試合に出て勝てるわけがないと思える人との対戦の中でも、めげずに「何かをつかんで帰る」という心に宿るものだと思います。
もしかしたら、知識偏重は知恵の弊害ですらあるかもしれません。行動が伴っていないと…実践がないと、知恵は育まれにくいもののようです。失敗や挫折の経験が多い人は、挑戦をし続けている人です。ですから、知恵のある人の第一の資質は「挑戦をする人」かもしれません。
 
そして、さらに言えば、知恵のヒントの多くは、自分の頭の中に生まれるものではなくて、だれかとの関係の中に生まれることが多いように思えます。テニスプレーヤーで言えば、コーチとのコミュニケーションの中にあるかもしれませんし、もしかしたら対戦相手が打つボールに込められた何か…かもしれません。知恵のある人の第二の資質は、知恵のある人に聞こうとする「開かれた心」かもしれません。
 
失敗や挫折で自暴自棄になってしまったら、それはとても残念なことです。それは知恵の木を育てる滋養になるどころか、木の根を腐らす毒になってしまいそうです。「めげない前向きな心」が求められますが、「それを持とう!」と言っても僕にはハードルが高すぎました。自暴自棄になる場合の多くは、そこに怒りや焦りや恐怖があったような気がします。むしろ、なぜ自分がそんなときに、怒りや嫉妬や恐怖を感じるのかを見つめた方が良い場合が多いかもしれません。少なくても自分はそうでした。
知恵のある人の第三の資質は、「前向きな気持ち」…僕の場合は「こだわりからの卒業」と言った方がしっくりする気もします。
 
さて、冒頭の話に戻ります。「私が悪いという動議は圧倒的多数で否決されました」の中には知恵が育まれる要素は見当たりません。
全体の影響力は20%であったかもしれない、でもその20%を起爆剤として、…きっかけとして、残りの80%に正しく働きかけられる余地はなかったのか…この考えの中にだけ「知恵」が生まれる土壌があります。仕事にとって大事なのは、多数決でもなければ、正当な理由の主張でもありません。大切なことは、自分に託されていた20%をさらにグレードアップする術を身につけることです。知恵のある人の第四の資質は「謙虚さ」です。「学ぶ力」とも言い換えられるかもしれません。
僕はひょっとして、この第四の資質が一番大切であるような気がしています。なぜかって? 「言い訳をしたい自分」「多数決に持ち込みたい自分」の存在にいつも悩まされていますし、謙虚さが僕に不足していると痛感することが多いから…です。
事実、アクシデントに接して、早く「謙虚」にならないと、他の3つの資質の出番は回ってこないような気がします。謙虚な人でありたいですね…切にそう願っています。