やさしくあることのむずかしさ

やさしさという流れを集めると、やがて「承認」という名前の本流になり、ついには「幸せ」という名の海に注ぎ込む…これが現在の幸せの方程式でしょうか。でも、僕らが目にしてきたやさしさの多くは、どんなに集めてみても「承認」という本流を作ることはありませんでした。やさしさは、理解を生み、お互いの価値を認め合うという地形にたどりつく前に、地面に吸い込まれて消えてしまう。すべての良いことのはじまりにはやさしさがあるはず…だからこそ「やさしい人」を見つけていっしょになったはずなのに…やさしさがお互いの承認を生むと信じたからこそやさしい自分をめざしてきたのに…大なり小なりそんなジレンマを抱えながら僕らは生きているような気がします。
 
 
「結局やさしい人ではなかった」「いっしょになったら変わった」と納得してみても、それはどこにも行けない思いを残すだけかもしれない。もしかしたら、やさしさは源流ではないのかもしれない…それが今回の話題です。源流は勢いのある流れで、岩をも穿つ「絶えることのない」普遍性も持つことで、はじめて水源となります。やさしさはその流れに乗った笹舟のようなもので、その流れがたまたま目に見えた形なのかもしれない…それが今回の仮説です。やさしさを求めることの危うさを、「やさしくない人」と言われそうだなあとびくびくしながら、でもこの話題を進めてみたいと思います。それが企業のあるべき姿勢にもつながっているし、社員の成長を考えるときに避けては通れない現在の課題であるようにも思えるからです。
 
それにしても、どうして僕らは「やさしい人でなくては私を理解できるはずがない」という刷り込みによって苦しまなくてはいけないのでしょうね。