コーヒーの香り

健康食品のパッケージデザインがようやく完成した。リストから担当者を選び、データを添付し、もう一度確認し、私は「はい、これでこの仕事ともおさらばよ」という決意をこめてキーをたたいた。きっと担当者から明日の朝にメールが入ることだろう。ひと段落するともう何も手をつける気にはなれなかった。狭いアパートの一室から抜け出し、外の風を求めて私はバイクに乗った。あてもなく出かけたのだが、いつしか秋深い夜の海にやってきていた。人の気配といえば、遠く隣の入り江との境あたりに2~3人の人影らしいものが見えるだけだった。その向こうに赤っぽい灯台の光が、時を刻むように規則的に光っては消えていた。雲間からのぞく下弦の月が、静かな海を照らし出していた。白い浜が闇に包まれて、海になるあたりに、ときおり小さく寄せる波が白く浮かび上がった。私は砂浜に腰をおろして、しばらく波の音を聞いていた。祖母が亡くなって1年が過ぎようとしていた。私は、祖母の家でよく聞いたダニーボーイのメロディーを思い出していた。はじめは頭の中でかすかに聞こえていたメロディーが、やがて今現実に耳から聞こえているようになり、それにつれて波の音も静かな海の景色も私から遠ざかっていった。木立の辺りから蝉の声が聞こえてくる。その向こうには大きな入道雲が誇らしげに天のきわみに向かって突き上げていた。部屋の奥のほうからダニーボーイが聞こえてくる。祖母はコーヒーを入れているようだ。コーヒーの香りが私のいる、窓をすべて開け放った縁側まで漂ってきた。祖母はコーヒーが嫌いな祖父が出かけるのを待って、必ず毎朝コーヒーを入れる。そして、たいていはお気に入りのダニーボーイをかける。もうじき、私にはミルクたっぷりの、そして自分にはブラックコーヒーの入った不ぞろいのマグカップをお盆に載せて祖母がやってくるはずだ。そして、この縁側でしばらく昔話をするのである。そのとき、私は突然、夏の日差しの中の縁側から秋の人気のない海辺にもどされた。何かの気配を傍らに感じたからである。でも、その気配は私に恐怖を感じさせるには小さすぎた。傍らを見ると1匹のネコがいた。いつの間に来たのだろう。白にグレーの大きな縞が混じっていて、まだ1歳になるかならないか、幼さを残したネコだった。ネコは私の傍らにすわり、私と同じように海を見ていたようだった。私がネコを見ると、ネコも私のほうを見た。私が撫でようと手を伸ばすと、ネコはさっと体をかがめて、私の手をすり抜けるようにして行ってしまった。浜辺を歩く姿がときおり月明かりに浮かんでは消え、やがて闇の中に完全に消えた。後には、また静かな波の音だけが残った。
 
砂浜を抜けてバイクを置いた空き地にもどりかけたとき、携帯電話が鳴った。こんな時間に鳴らすのは、先生しかいない。私は着信番号も確かめずに、携帯に向かって話し始めた。「先生、こんばんは。どうされましたか。」「おー、川口君か。またアルバイトに精を出しておるんじゃろ。研究のほうも忘れんでくれよ。実は、頼みがあるんだ。」例によって、先生は一方的に話を始めた。「聞いておるか?川口君。」「はい、もちろん聞いています。それで何をすればいいんでしょうか。」「すまんが、今度の日曜日にわしの家まで来てほしいんじゃ。詳しいことはそのときに話す。どうかな、来てくれるかな。」「わかりました。それで先生のご自宅はどこなんですか。」それから先生は珍しく神妙な声で話を付け加えた。「このことは誰にも話してはならん。わしの家の地図は今度会ったときに渡す。君のバイクなら大学から3時間もあれば着くじゃろう。いいね、くれぐれも他言は無用だよ。」「わかりました。」あとは日曜日に雨が降らないことを祈るばかりだ。